2014年4月29日火曜日

Vampillia/my beautiful twisted nightmares in aurora rainbow darkness

日本は大阪のブルータルオーケストラ待望の1stアルバム。
この間リリースされた色々なアーティストとのコラボレーション企画版「The Divine Move」と同じくWorld's End Girlfriendの主催するレーベルVirgine Babylon Recordsから2014年にリリースされた。
Vampilliaは2005年に大阪で結成されたバンドだから、だいたい1stアルバムが出るまで9年かかったことになる。すごく長いがその間にもコラボ含めたかなりの音源をリリースしているから、大分いろいろやってますけど、あれまだ出てなかったの?という感じだろうか。私は彼らの音源をすべて網羅してる訳ではないからあれだけど、そうやって思い返してみるとどれも尖った音源だが、なるほどフルアルバムというのとはちょっと違うのかとも思う。コラボはコラボだし、単独音源なんかも企画版じゃないけど結構コンセプチュアルな作りになっているようだから。
インタビューなどを読むと実は結構前にAnimal Collectiveの人なんかと作っていたらしいけど、諸般の事情でお蔵入りになったからそういった事情もあって、待望のという形でリリースされたのが今作。タイトルが長いけど「オーロラの虹の暗闇の中の私の美しく歪んだ悪夢達」とでも訳すか。(調べたらカニエ・ウェストのアルバムのもじりっぽい。)全編アイスランドのレイキャビックのグリーンハウススタジオで収録されてWorld's End Girlfriendがリミックスを手がけている。マスタリングはKashiwa Daisuke(気になっているけどまだちゃんと聴いたことない)。ゲストミュージシャンとしてツジコノリコとJarboeがそれぞれボーカルで参加しているほか、アイスランド地元のストリング隊と聖歌隊がレコーディングに参加している。

基本は今までの流れを汲む静と動を意識したプログレッシブなメタルで、ピアノとストリングスを入れることでその音楽性の裾を広げているが、決して大仰になりすぎず、あくまでもバンドサウンド。
突っ走るところはツインドラムを活かしたグラインドコアはだしの轟音スタイルで、なんといってもブラックメタルからの影響がありそうな(特に今作は要素はありつつも全体の音像は全くブラックメタルっぽくなない。)、トレモロいギターがグイグイ引っ張りまくる。モンゴロイドのデス声はいつもにましてデス声でかなーりドスの利いたスタイル。
オペラ声も非常に堂々としたもので荘厳かつ歪んだバロックとでも例えれば良いのか。
ドラムやギター、ベースなどのバンドサウンドがその音のでかさでもって曲を派手なものにしているところ、曲の完成度を上げるのに一役買っているピアノがとにかくすばらしい。ピアノという楽器はとにかくすごい存在感があって、印象的なフレーズ一つで曲の雰囲気ががらりと変わってくる。特に静と動を強く打ち出すこのバンドではあっという間に静謐な空気を作るには不可欠な存在ではなかろうか。
曲の展開はめまぐるしく変わり、メタルや独特のアンビエンス、ハーシュノイズ、クラシック様々な要素をアルバム単位、曲単位で矢継ぎ早に繰り出してくるそのスタイルは、例えば四季だったり喜怒哀楽の感情を早回しで再現しようとする試みのように難解かつ普遍的なもので、個人的にはとても好きだ。すべての数ある要素がその雑多さ故に曖昧にならず、強い個性でもって共存しているこのバランス感覚がVampilliaというバンドの一番優れているところかもしれないと思った。
初めてのフルアルバムということで今まで積み上げて来た経験でもって直球勝負する様な、意外にも真面目この上ない内容である。一歩も引かない気迫でもってすっと差し出された名刺のようにいさぎが良いものである。全編奇を衒っている様なバンドなのにこのアルバムを聴くと意外にも衒ってない感があってちょっと驚いたものである。

やっぱりVampilliaはすごいなあ、と素直に感心してしまったアルバム。
いやー本当こういう人たちが日本にいてくれて嬉しいす。
文句なしにとてもオススメ。是非聴いてほしい
(このバンドが初めての人は前作「the divine move」のが良いかもしれない。)
ちなみにレーベル直販特典はendless summer の8bitバージョン。意外に味があるね…なんとなくROM=PARIっぽくて私は好きです。



一つ気になるのはブックレットに「R.I.P. Psychic Yamanashi」と書かれていること。サイキック山梨とはVampilliaのボーカルで白塗りピエロのゲス声担当の人(多分ベースのミッチさんとは別人だと思うのだけど。)で「Heyoah」のMVでその姿を見ることが出来る。最近姿が見えないので抜けたのかなあと思っていたけど、亡くなってしまったのだろうか…だとしたたら非常に残念なことだ。

2014年4月27日日曜日

Cult Leader/Nothing for Us Here

Gazaというアメリカはユタ州のバンドがあって、粗いグラインドコアにスラッジの泥沼の様な悪意を無理矢理コラージュした様な音楽性でもって2004年から2013年までの活動で3枚のフルアルバムを発表。バンドはその後ボーカリストが女性への暴行の角で訴えられ解散。
私は幸いなことに彼らの1stアルバム「I don't Care Where I Go When I Die」に偶然であって以来のファンだった。特に最終作となったアルバム「No Absolutes in Human Suffering」は過度の暴力性と放心した様な諦観がないまぜになった感情の極北ともいうべき恐ろしいもので、現時点で人生のベストを選ぶなら確実にリスト入りするくらい気に入っている。
だからアルバム発表後間を空けずにバンドが解散を宣言したときは、私の大好きな音楽というものが遂に日の目を見ないまま、大衆という訳の分からないものにその膝を屈してしまったようで大層残念で、何ともいえない喪失感に苛まされた訳だ。
その後事情が事情なだけあって元Gazaのメンバーが組んだバンドがこのCult Leaderである。
このたび2014年に目出たくかのConvergeのジェイコブが運営するレーベルDeathwishから1stEPがリリースされる運びになった。
私はFacebookで小出しにされる情報や、新曲などを聴きながら大分前からこの発売を心待ちにしていたのでまずこの発売自体がとても喜ばしい。

Cult Leader は実質ボーカル不在のGazaが名前を変えてその音楽を弾きついた様なバンドで4人中3人がGazaの元メンバー。ベーシストがボーカルにシフトし、あたらにベーシストを迎えた形になり、既にEPの発表だけではなくかなり頻繁にライブを行っているようだ。
基本的には音楽性もGazaからの直線上にある。つまりメタルというよりはハードコア由来が強い酷くノイジーなハードコア/グラインドコアに何ともいえない放心した様なスラッジパートを突っ込んだ凶暴なものである。
1曲目「God's Lonely Children」、フィードバックノイズにまみれた絶叫が響き渡るその音楽性、これはもう聴いた瞬間にやっぱり間違いねえなと思った訳である。間髪入れずに始まる2曲目「Flightless Birds」のこじる様な独特のギターリフ、こりゃあGazaだ。バンドの名前が変わっても全く日和ることなく凄まじい密度で復活してきた。
ボーカルは変更したこともあり、さすがにちょっと質が変わったが(野太さがちょっと減少した)、基本はのどに引っ掛けて絞り出す様な苦しそうなハードコア由来のスクリーム。
ベースは新メンバー。Gazaのそれに比べてもう一歩前に出て来た印象で、太く低いものの分離が良い音で露骨に唸りまくっているのが分かる。
ドラムは相変わらず叩きまくりのスタイルで、独特のキンキンいわすシンバルの連打が滅茶苦茶格好よい。
ギターは相変わらず無理矢理こじった様な歪んだリフでギョムギョムしている。低い低音とキャラキャラした高音リフへの移動速度が凄まじく、楽器が出来ない私からしたら何をやっているのかよくわからない。一方でためる様なパートでのメリハリがすばらしく、単純に頭を振っていて気持ちよいことこのうえなし。フィードバックノイズも多め。
相変わらずアンサンブルによる演奏は凄まじく、突っ走ったかと思えば、どろりと停滞している。放射状に音が放出される様な広がりがあるのに、異常な緊張感が呼吸が苦しい。ある種拷問の様なその音楽性が何故こんな気持ちよいのか分からない。
暴力、死、恐怖、悪魔、サタン、死体、憎悪、ねたみ、嫉妬およそメタルやハードコアは負の要素を燃料にその過激な音楽性を研いで来た。暴力そのものを感じさせるバンドは多々ある、しかしその暴力の後の破壊の惨状をどうしようもないような気持ちで眺めている様な空虚さを感じさせるバンドとなるとそういないのではあるまいか。
(Gaza)Cult Leaderは常に暴力からその先のビジョンを見せつける様な音楽性で活動して来た。今作でもそのどうしようもない空虚さが嫌になるくらい満ちている。
凄まじい音楽性でもって私は今回もその景色に魅了されてしまうのである。
フルアルバムを作ってくれと切に願う。
そして世にはこんなすばらしい音楽があるので、皆さんは是非是非聴いてください。

ジェイムズ・トンプソン/凍氷

フィンランド在住のアメリカ人作家によるミステリー/警察小説。
カリ・ヴァーラ警部が活躍するシリーズ第二弾。第一弾の「極夜 カーモス」の感想はこちら。
アメリカ人作家によるサイコサスペンス調の派手な警察小説の要素で持って極寒の地フィンランドを舞台に物語が展開するという、そのハイブリッド性が他の警察小説にはないエンターテインメント性を獲得しているシリーズだと思う。

前回の凄惨な事件後首都ヘルシンキに移動したカリ・ヴァーラ警部は妻の妊娠・出産を目前にし神経を尖らせていた。前回の妊娠では自分の事件の心労から妻が流産してしまったかだ。ひどい頭痛に悩まされ、頭はいいが人付き合いが苦手な相棒と組まされたカリはとある富豪の妻が愛人の家で拷問の上殺された事件を担当する。当初は愛人が犯人と目されていたが、どうにも裏がありそうだ。そんな中国家警察長官から直々にフィンランドの秘密警察が大戦中にナチスと連携していた事件を調査し、秘密裏にもみ消すことが指示される。フィンランドで捕虜の虐殺はあったのだろうか。カリは秘密警察に自分の愛する祖父が関わっていたことを知り、穏やかではいられない。二つの難事件を抱えるカリだったが、さらに妻ケイトの弟と妹がアメリカからやって来てトラブルを起こすのだった。満身創痍のカリは事件を解決できるのか…

今回も盛りだくさんで話のスケールでいったら、フィンランドが抱える歴史の闇に突っ込んだ今作は前作以上の衝撃がある。北欧とナチスの連携といっても大抵の日本人はピンと来ないだろうし、勿論私もこの小説を読むまでは全くそんな存在する知らなかった。フィンランド在住のアメリカ人というある種アウトサイダーの視点から現地人が口を開きたがらない歴史の事実について衝撃的かつ客観的に書かれていてとても興味深い。
また、天才のくせに人間としてのたがが明らかに外れている相棒ミロの存在もとても良い。バディものとしても面白い(ちょっとカリが活躍し過ぎの感があるが)。
だが個人的に一番すごかったのが、作者の人物造形の巧みさであった。
主人公カリ・ヴァーラ警部はある種男の強さをそのまま体現した様なヒーローである。痩せて頑強な体。酒が強く腕っ節も強い。寡黙で人付き合いは下手だが、頑として他人に譲ることはない。捜査においては一匹狼だが、相棒には強いリーダーシップを発揮する。IQが非常に高いが鼻にかけることはなく鋭い直感と柔軟な考えで捜査に望む。女性にもてるが心を許しているのは妻のケイトだけで、彼女のことを生活の第一に考える。執念深く犯罪者に対しては苛烈な姿勢で望む一方、子供や老人などの弱者に対する愛情は表に出さないもののとても強い。過去に辛い過去があり、中年となった今でも思い出に悩まされるが他人に漏らすことはない。とまあハードボイルド趣向に振り切った極端な人物像といえるかもしれないが、それでも男性が考える理想の男性像を体現した様なキャラクターであろう。私は物語を見るとどちらかというと悪役に肩入れするタイプである。それはひねくれもあるだろうが、むしろ人間臭い弱さをもった悪役に同情できるからである。私は典型的完全無欠のヒーローが嫌いである。彼らの存在自体が嘘くさいからだ。
このケリ・ヴァーラ警部は欠点はあるもののある種理想的にすぎるな、と思った。なんだかちょっと信じられないっすよ、こういう男は、と当初はこうなる訳だ。
しかしジェイムズ・トンプソンの書き方はどうだろう。彼はカリをとても丁寧に書く。典型的なキャラクターがちゃんと呼吸している。極北の大地で白い息を吐き、凍った地面を踏みしめるカリ・ヴァーラ警部の姿がまさに私の頭の中で映像となって再生されるようだ。そこに不自然さが付け入る隙はなかった。
これはある種可能性の話であって、偶然が重なればこんなキャラクターが産まれるかもしれない、虚構の物語なのだからどんな不自然なキャラクターでも登場できるが、読み手としては彼らが尖れば尖るほど、もし粗があれば薄っぺらく見えてしまう。しかしそこを人間的な厚みをもって書ききった、その綱渡りの様な作業を見事にあって退けた作者ジェイムズ・トンプソンの技量に痛く感心した訳である。
こうなるともう完全にカリ・ヴァーラのファンになってしまい、彼が難事件を解決する様は痛快の一言である。面白かった。

今作も暗く思い話が続くが、前作の北極圏日が一度も上らない極夜で起こる事件に比べると南に下がり昼夜もはっきりした。醜い企みを白日の下に晒す用な爽快感もあって良い。
大変面白かったが、ぜひとも第一作目から読んでいただきたい。

ブレイク・クラウチ/パインズ-美しい地獄-

アメリカの作家ブレイク・クラウチによるミステリー小説。
オレンジの帯には「このラストは絶対予測不能!」という煽りと、「シックス・センス」などのM・ナイト・シャマラン監督の手による映像化(ドラマになるそうだ。)が決まったことが書かれている。この帯だけで何となくどんでん返し系の話だと見当がつくと思う。それもシャマラン監督だからかなりビックリする様な。

くらうちと打ち込むと倉内とまず変換されてしまうが、作者は勿論れっきとしたアメリカ人。1978年生まれだからまだ若い。この本は当初電子書籍の形式で発表されたが、その人気により紙での出版をも決まったそうだ。それで日本でも発売されたというのだから、この作品でブレイクしたのかとおもう。

美しい川沿いの芝生で目覚めた男、体中にひどい怪我を負っていて記憶にひどい混乱が生じ自分の名前も含めて思い出せることが極端に少ない。どうやら自分がいるのはパインズという小さな町らしい。町をさまよううちに倒れて病院に運ばれた男はやがて自分がシークレットサービスに勤めるイーサン・バークでとある捜査のためにこの町にやって来て交通事故にあったことを思い出す。捜査を進めようとするイーサンだが、町の人々は妙に非協力的で遅々として進まない。外部との連絡も取れず孤立するイーサンは次第にこの町が何かおかしいことに気づく。

自分以外のみんながグルになって自分を騙そうとしている考えは人間誰しも持つものではないだろうか。私も幼い頃そんなことを考えてはおびえつつもおもしろがったものだ。ジム・キャリー主演の「トゥルーマン・ショー」(なんと98年公開だった。)を覚えている人もいるのでは?
さてこの小説勿論終盤も終盤もドキドキして面白いのだが、なんといっても一見美しい小さな田舎町がよくよく見てみると少しずつ変だと分かっていく序盤のあたりが恐くて面白かった。良かったのが違和感をあまり装飾して曖昧にせず、露骨におかしいと分かるように書いたこと。この書き方だと明らかに現状が不自然であるという印象を読者にあまりに速めに知らせてしまうことになる、という弱点があるのだけど、結果的にそれを補ってあまりあるほどの緊迫感が出せていると思う。
数の暴力の恐さがあって、シークレット・サービスとしてかなり強めの法的権限を持っているはずのイーサンの言い分が全然通らない。いわば法律が通じない前近代的な原始世界に放り込まれたイーサンがとにかく痛めつけられるのだが、ある種の権力が根源的には暴力によって支えられていることをじわじわと実感させられる様な嫌らしさがあって、なんともやるせない。
またこの種の物語には常に「自分の方がおかしいのか?」という疑問が周囲の奇妙さと対比的にあって、それが話をさらに面白くさせるスパイスである。実は発狂しているのでは?妄想なのでは?そんな疑心暗鬼が面白いのはこれも日常生活に存在する普遍的な感情なのかもしれない。

どうしても衝撃のラストがフィーチャーされてしまうが、意外にもこういうこと誰でも一度は考えるよな、という普遍的なエピソードをいくつか集めて、それらを誇張強調して一つの物語に組み立てた様な丁寧さがあって、結構優れた小説なのではなかろうか。落ち頼みの小説でなくて、徐々に盛り上げていく序盤、何か決定的におかしい中盤、そして怒濤の様な終盤からオチにノンストップで突っ込む様なこの構成、なかなか技巧的。

典型的な嫌らしい保安官、ミステリアスな美女、姿を見せないが不吉な予感を振りまくクリーチャーなどなど、それだけで面白そうなキャラクターやアイテムがてんこもりでこれでもかというくらいのエンターテインメント小説。
面白かった。オススメ。

2014年4月20日日曜日

Kongh/Sole Creation

スウェーデンのNässjö(読めない…)のドゥームメタル/スラッジメタルバンドの3rdアルバム。
2013年にポーランドのAgonia Recordsからリリースされた。
以前紹介した2ndアルバム「Shadows of the Shapeless」(今読み返してみるとあんまり短いレビューで残念な気持ちになるな。)は中々格好よく特に1曲目の「Unholy Water」という曲は結構ヘヴィローテーションで未だにちょくちょく聴いている。
という訳で見逃していた最新のアルバムも買ってみた次第。
オフィシャルサイトを見るとメンバーとしてクレジットされているのは3人なのだが、このアルバムのブックレットを見てみるとギター/ボーカルとドラムの2人しか記載されていない。ベースレスで制作し、その後新メンバーが加入されたのかもしれない。ちなみにWikiによるとベースはライブメンバーと書いてあるが、オフィシャルにはベーシストは他の2人と同じように記載されている。

前作はとにかく砂と石塊で作った壁のような荒々しく重々しいブルドーザードゥームメタルで聴く人を圧殺するようなスタイルである意味ストレートな作風だったが、今作では前作の流れを踏襲しつつスタイルを結構変えてきているようだ。
重々しい音の作りはそのままに、曲を静と動という両極端を強調する構成から、静と動のその中間を意識したスタイルを取り入れている。静と動の両極端をとる方式は確かにぱっと見メリハリがあるのだが、終始それだとワンパターンで飽きが来てしまう。そう考えると結構スタイルの変化を恐れず、大胆に新しい要素を取り入れていこうというメンタリティがあるようだ。
あわせてボーカリゼーションも変更があって、元々この人は結構ブラックメタルの要素もありそうな押しつぶした様なわめき声主体で曲を進めて、たまに妙に張りのある粘っこいクリーンボーカルを入れるようなスタイルを取っていたが、今作ではそのクリーンパートの比率をかなり増やしてきている。といってもメタルコアバンドの様な急にクリーンかつキャッチーなサビを入れる様なスタイルではない。地声が良くてちょっとブルースを感じさせる渋い声で(ちょっとオジーに似ている様な…)ドゥームメタルの持つ陰鬱かつ不気味なボーカルスタイル。曲調も相まってちょっとサイケデリックな雰囲気が増したと思う。またデスっぽい低音も効果的に取り入れて、3つの音域で多彩に楽しめる。
3曲目は結構歌い上げているのだが、勇ましくも陰鬱で良い。ギターソロのフレーズもそうなのだが、ちょっとオールドなロックっぽい要素があってそれを圧殺ドゥームに違和感なく融合させる技量は特筆すべき。何かしら昔よかったものが今はのろわれてしまった様な禍々しい感じがあって、その退廃性を音楽に落とし込めている。
とにかくうねるのあるギターリフがめちゃ格好よい。一変してためる様なフレーズから絞り出す様なイーヴィルなボーカルスタイル。音の数も種類も結構豊富。前作からの持ち味でもある、ギターを「キャーン」とならすフレーズを結構随所に入れてくるのだが、これが結構メリハリになっていて私は好きだ。
ドラムは乾いた中音でどたんパタンと適度な重さで曲作りの変更ととても良くあっていると思う。たまに入るツーバスの連打がすばらしい。ドゥームメタルを基調としつつも、そこにとらわれないラジカルな印象。

派手さはないが確実にステップアップしている印象で、もうちょっと注目されても良いのではないかな、と思う。
良いアルバム。オススメ。

アンドレアス・グルーバー/黒のクイーン

オーストリアの作家によるミステリー小説。
同じ作者の「夏を殺す少女」が大変面白かったので買ってみた。
訳は同じ酒寄進一さんで後書きによると本書は「夏を殺す少女」以前に書かれたものだそうだ。本書が新たに翻訳されたということは「夏を殺す少女」が結構日本でもうけたからかな?

オーストリアでフリーランスの保険調査専門探偵をやっているペーター・ホガートは大手保険会社の支社長からある依頼を受ける。隣国チェコで起きたとある歴史的な絵画消失事件は保険金目当ての偽装の疑いがあり、調査に赴いた専属の女性探偵が姿を消したという。悪い予感を抱えつつホガートはチェコはプラハに飛ぶが、偶然かの地発生していた被害者は全員首と手を切断されビロードに包まれ路上に放置されるという異様な連続殺人事件に巻き込まれる。ホガートは絵画消失事件と連続猟奇殺人事件を解決できるのか。

「夏を殺す少女」は冴えないけど激情を秘めた男性刑事と若い女性弁護士のバディものだったが、今作でも主人公は渋みがかかった探偵でその相棒はホガートよりは若い者の子持ちのやり手女探偵となっている。男女のバディものというのはこういったミステリでは結構王道なのかも。主人公達はフリーの探偵なので、警察ほどしがらみに縛られる訳でもなくぽんぽん捜査が進んでいく様は結構小気味よい。
この小説で特に面白いと思ったのは、犯人の特定が結構早い段階(といっても後半ではあるが。)でくること。昨今は結構最後の最後まで引っ張って「ななななんとー」というパターンが多いのだけど、今作では結構「コイツ怪しい…」となってからさてどうやってコイツを追いつめて真相を看破するか、という楽しみが出てくる。これが犯人と探偵の攻防という訳ではないが、中々真に迫って面白かった。ミステリといっても所謂本格とは違う訳だから、誰がどうやって、というよりは、こいつが何故という動機を探る様なプロセスがこの本ではかなり丁寧に描写されていて、主人公の特性を活かしたハードボイルドさを保ちつつ、アメリカのサイコスリラーを彷彿とさせる派手なギミックを内部に仕込んでいるようで、やはりこの作者なかなか上手に読者を楽しませるな〜と感心。
「夏を殺す少女」でもそうだったが、この作者は虐げられてきた人間が怒りと憎悪を爆発させて自己破滅的な勢いでもって虐待者に迫りくる鬼気迫る展開が得意で、今回も容易に善悪の判断がつけづらい展開で読者を惹き付けること。日本人はだいたい仇討ちものが好きというのはよくいわれることだけど、結構それは前世界共通の感情なのかもしれず、小説を読んでいるうちに誰を応援すれば良いのか、誰が一番悪いのか、と考えてしまう様なこの構成は流石の技量であると感心せざるを得ないのであった。
復讐譚としての完成度や、話の作り込みに関しては恐らく次作に軍配が上がるだろうが、今作もそこに至る過程が見えて一冊の本として十分に面白い。

私は出不精で旅行なんてほとんどしないに関わらずなんとなく昔からプラハに憧れを抱いていて、この本ではプラハの新旧入り交じる幻想的かつちょっと退廃的な雰囲気を丁寧に描写していてそこも面白かった。ボートハウスを借りの住まいにする探偵というのもなかなか絵になって良かった。

「夏を殺す少女」が気に入った人は是非。
また、硬派かつエンターテインメント満載の小説が好きな人も気に入ると思う。

以下結末に触れる文章になるので、今作を既に読み終えた人は読んでください。

2014年4月19日土曜日

パオロ・バチガルピ/シップブレイカー

アメリカの気鋭のSF作家パオロ・バチガルピによるSF小説。
この間紹介した同じ作家による短編集「第六ポンプ」があんまり面白かったもんですぐにこの本を買った次第。「ねじまき少女」も読んでいるので一応本として出版されたのはこの本で全部読んだことになると思う。しかしまだ本になっていない和訳された中編があるそうだが。
この本はヤングアダルトという小説のカテゴリで発表されたもので、ローカス賞のヤングアダルト長編部門賞を獲得したそうだ。
ヤングアダルトというとジャンルではなく、カテゴリで調べてみると12歳から19歳までつまりティーンエイジャーを読者層として想定して書かれた小説のことを言うらしい。日本ではジュブナイルといったりする。私はあまりこのカテゴリの本を読んだことがないと思う。小学生の頃青い装丁の文庫本をよく図書館で読んでいたがあれはきっとヤングアダルトではないと思う。(「宇宙戦士レンズマン」とか。調べたら青い鳥文庫という児童書でした…)まあ要するに過激な(暴力・残虐・性的)表現がないような小説カテゴリかと。
パオロ・バチガルピといえば結構過激で苛烈なサバイバルが展開されるディストピアを描くのが得意だからヤングアダルトというと何となく大丈夫なのか?という気持ちはあった。

石油によって栄えた文明がその枯渇によって終焉を迎えた未来。
エネルギー事情は大きく後退し、環境を大きく破壊された世界では人々の貧富の差が大きく拡大していた。アメリカの沿岸部に暮らすネイラーは自分の年齢も文字も分からないが、前時代の巨大船を解体し、その材料を集めるシップブレイカーという職業を生業にしていた。小さい体躯を活かし配線のダクトに潜り込み、金属を集めるのだ。仕事は死と隣り合わせ、おまけにネイラーの父親は近辺では評判の暴力的なゴロツキだった。
それでもクリッパー船と呼ばれる高速船にいつか乗ることを夢み、仲間達と仕事に励んでいる。ある日巨大なハリケーンが襲った浜辺で座礁したクリッパー船の中から金持ちの少女を発見し、ネイラーの運命は大きく動き始める。

ヤングアダルトということで主人公はティーンの男子。そしてボーイミーツガールよろしくお金持ちの美少女と出会っちゃう訳だ。うはー若いね、青いね、となる訳だが、そこはパオロ・バチガルピのことだから一筋縄ではいかない。
まず世界観がほぼ「ねじまき少女」と同じで石油を大量に消費した拡張時代(本書では別の言い方がされていたが問題の言葉が見つけられなかった…)が終わりを迎え、世界はまた人間に取って広い場所になってしまっている。環境は徹底的に破壊され、海面は上昇し沿岸部の都市は海に沈んでいる。人口の多くは前近代的な生活に身を置き、今日の飯のために生き抜かなければならない。それらがはっきりと語られている訳ではないが、かなり
厳しい世界観である。主人公のネイラーもアメリカ人(はっきりとした出自は明記されていないが。)なのだが、(アジアが舞台になる話が得意な作者だけにアメリカが舞台の物語というのは新鮮。)文字も読めないし自分の年も分からない。サディスティックな父親と掘建て小屋とも呼べないボロ屋に住んでいる。幼いながらも生きるためにいつ配線のダクトに潜り込むという危険な仕事に身をやつし、その仕事すら体が大きくなったら他のものに奪われてしまう。上司はクソ野郎で搾取される毎日。
作者の他の小説同様生きることの困難さがこれでもかと描写される。しかしヤングアダルトなりの描写や表現もそうだが、それ以上にめげない主人公ネイラーのカラリとした性格でぱっと見そこまで悲惨さがないのが読みやすくて良い。
全体を通して暴力的で支配的な父親との対決というのが一つのテーマになってきて、謎の美少女ニタと出会ったことでネイラーは新しい世界に飛び出していくのだが、過去からは逃げ切れないぜとばかりに父親が迫ってくる。その執念たるや凄まじく最早親子喧嘩所の騒ぎでない。殺し合いである。ヤングアダルトながらもバチガルピは野蛮な世界での生存の困難さに関して御馴染みの流儀ではっきりと書き出している。語り口は柔らかいものの、人間の本質に迫る真摯な書き方である。現代の豊かな生活がすべて上っ面だけのまやかしではないが、人間と自然の本質というのを忘れてはいけないよ、という年長者からの暖かいメッセージがビンタのような厳しい叱咤となって問いかける様な感じがある。(私はもう良い年だから実際のヤングアダルト達がこの本を読んでどう感じるのかはわからないが。是非知りたいところでもある。)「ねじまき少女」のような仏教的無常観が漂う作品とは異なり、自分の意志で未来を切り開いていくネイラーの姿はなるほど確かにジュブナイルであり、青春小説だ。ただ大人は誰でも一度はティーンエイジャーなのだから、大人が読んでも勿論面白い。
個人的には人と犬と虎とジャッカルの遺伝子を混ぜて作られた恐ろしくおぞましい半人、中でも主人に忠誠を近い主人が死ぬと自分も死ぬといわれている彼らとは違い、半人ながらも自由に振る舞うトゥールというキャラクターが良かった。この物語は同じ世界観で続編が書かれており、そこにはなんとトゥールも出てくるというので、早くも楽しみである。
という訳でヤングアダルトながらも作者の軸がぶれていない小説。パオロ・バチガルピのファンなら買っても損はしないかと。
また、もしヤングでアダルトな貴方がこの記事を読んだなら是非読んでいただきたいところ。

2014年4月14日月曜日

Vampillia/the divine move

日本は大阪のブルータルオーケストラの音源。
今まで結構な音源をリリースしてきた彼らだが、実は今までフルアルバムをリリースしたことはない。以前作っていたらしいが、とある事情でお蔵入りになったそうだ。そんな紆余曲折があった彼らだが、日本のWorld's End Girlfriendの前田さんが主催するVirgin Babylon Recordsと契約し、待望の1stアルバムをリリースすることになったそうな。
そのフルアルバムに先駆けて上記Virgin Babylon Recordsから2014年にリリースしたのがこの音源。

全9曲でどの曲もゲストを迎えて共作したもの。
ゲストの面々は伝説的な女性歌手戸川純、色々と世間を騒がせているらしいアイドルグループBiS、過去何度か共演しているツジコノリコ、あぶらだこの長谷川裕倫、激テクニカルブラックメタルバンドKralliceのMcik Barrと中々豪華。チョイスのセンスがなんというか彼ららしいといえば彼ららしいのだろうか。
戸川純とBiSに関してはbombsというプロジェクト発になっていて、これが何かというとVampilliaのギタリストの真部脩一(元相対性理論)が歌メロと歌詞を担当しJ-POP産業に挑戦するというものらしい。
元々このバンドは強烈なマニアックさとそれと同じ位強烈なポップなメロディを同居させていたバンドだと思うので、あらためてプロジェクトとすることで指向性を明確にしたという感じでそこまでは違和感はないのではないかと。
Mick Barrをのぞけばゲストの面々は全部ボーカルを担当しているので上記bombs以外も結構このバンドのもつポップな面を強調している様な曲が並んでいる。
女性ボーカルが目立つが、元々オリジナルメンバーのVelladonはオペラボーカルなので、普通に歌うスタイルの女性声が入ると結構それだけで楽曲の幅が広がるものだと思う。
演奏は相変わらず人数の多さを武器に嵐の様な轟音でぶっ飛ばすようなスタイルは変わらずだが、いつも以上に間を意識してゲストのバーカルにしっかり歌わせている印象。なるほどJ-POP産業に挑む様なポップなメロディラインだが、演奏が後ろに引っ込まないどころかグイグイ弾きまくるところは大変良い。これで真面目に「J-POP産業に挑む!」というところがすごい。別に皮肉でいっているのではない。自分達の流儀で勝負を挑むそのスタイル、格好いいじゃないかと思うのである。接近しつつも迎合しない感じがすばらしい。
繰り返しになるが元々メロディアスな部分を明確に持っていたバンドなので、今回のやり方もとてもしっくり来る。

戸川純コラボの曲は、うわなんか歌い方が不安定で恐い!と思った。実は最後二収録されている別バージョンの方が好きです。
BiSは彼女達の曲はちゃんと聴いたことがないのだけど(Madのタケシさんが曲を提供してたりするのは知っている。)「mirror mirror」はすごく良かった。アイドルは声が若過ぎて聴いているとなんか照れくさくなってしまって苦手なのだけど、この曲では変にアイドルアイドルしていないけど声は若い。わかりにくいのだけど、高校生の合唱を聴く様なピュアかつナチュラルな感じがしてさわやかで良い。一点「いやーーー」っという悲鳴も良い。突き放したようにつぶやいて終わるラストもすばらしく、とても気に入りました。
あぶらだこ好きとしてはヒロトモさんコラボの曲は期待値が一番高く、実際すばらしいと思うが、個人的には後半が少し明るすぎるかな〜。前半のボソボソつぶやく感じを後半でもうちょっと絡めてほしかった。
Mick Barrコラボの曲は一番Vampilliaっぽい。元々ブラックメタルの要素があるバンドなので、その魅力が倍加されたように強調されてストレートに格好よい。
去年夏にリリースされたツジコノリコボーカルの「endless summer」は激しい演奏と胸を打つ切ないメロディを融合させた名曲でやはり今聴いてもすばらしい。ちなみに真部脩一ボーカルの「真っ逆さまー」の方も収録されているので安心してほしい。しかし個人的にはもう1曲のツジコノリコボーカルの「diziness of the sun」を強力に推したい。ゆったりと始まった曲が歌詞をミニマルに反復しながら螺旋状に旋回するように徐々に盛り上がり、大団円を迎える様なラストのカタルシスが半端無い。桜が舞い散る様な恐ろしく感動的な情景が目に浮かぶ超名曲。

という訳でどのコラボレーションもすばらしかったっすね。
彼らのオリジナリティがきちんとありつつ、バリエーション豊かなので、初めてVampilliaを聴く人にも超オススメ。
俄然1stアルバムに期待が高まる!

ちなみにまだ買ってない人は是非レーベル直販で買っていただきたい。
というのも特典の音源「freezekjemplama」という曲がダウンロードできるのだが、これが17分弱のノイズまみれのフューネラルドゥームを思わせる様な地獄曲で、本体収録曲とまさに対極にありつつもなるほどコレも確かにVampilliaの一面であるな、と納得させられる様なクソ名曲なので、聴かない人は確実にもったいなすぎる。


2014年4月13日日曜日

恒川光太郎/南の子供が夜いくところ

日本のホラー作家による幻想小説。
角川ホラー文庫から出版されているが、内容的にはホラーというよりは幻想小説といっても良いと思う。主人公は男の子なのだが、直接彼の出てくる物語と大筋の物語に関連があるが別の物語があって全部で7つの物語で構成されている。
恒川光太郎は日本ホラー小説大賞を受賞した「夜市」とループものの表題作ほか2編を収録した「秋の牢獄」という本を読んだことがあって、たしかにどちらの本にも得体の知れない恐さが描かれているのだが、全体的には異界を書いたようなその不思議な世界観にいたく感動したもので、もうちょっとこういう話を書く日本人作家が増えたら良いのに、と思ったものだ。
久しぶりに読んでみようということで買ってみた。

11歳のタカシは両親ともに湘南の海水浴場に来ていた。両親はレストランの経営に失敗し、借金で首が回らず一家心中を企てていたが、すんでのところで謎の女性ユナの手引きで夜逃げすることになる。タカシは両親とはなれ、南の島「コロンバス島」で生活することになる。そこは現代にありながらも不思議な異界につながっていた。

子供が主人公ということもあって全体的に南の島の豊かな色彩に彩られた物語がゆったり進む様な印象がある。ただしそこは作者のことだから一筋縄の良い話で進む訳もなく、平和な島は実は不思議な異界との境界が曖昧になっており、怪異が少しずつ日常にとけ込んでいる。盆には先祖の霊が現出し、海からは過去からの異邦人が訪れる、島を巡るバスは時にとんでもない場所に乗客を連れて行く。
まるでおとぎ話のようだが、昔話めいた寓話性はなく、ひとまず教訓を求めるよりはその不思議な世界に入り込む様な楽しさがある。勿論ちゃんと考えられた作者なりの意味があるんだろうが、私はむしろ島で起こる様々な不思議なことを、端から眺めつつぐるっと島を巡るように本を読んだ。こういうことも起こるのかー、というのんびりとした様な感じである。
島に関わる様々なエピソードが7つの短編になって、視点と主人公を変えつつ展開される。よくよく読んでみると実は一見脈絡のない出来事も実は因果があって、物語全体を通して過去とそしてそれがあっての現在というテーマが根底にあるようだ。謎の呪術師ユナの出生や、引退した海賊の頭領で長いときの中で半分人間を超えた存在になったティユルのエピソード、タカシの友達ロブが先祖の霊にあう話などなど。因果といってもこうしろああしろ、お前が悪い、そういうのではなくて大波に浚われるよう流されて、必死で嵐の中漕いで来た今はここにいます、というような因果応報ではなく、運命のそのどうしようもない無情さと、その中で生きる人の営みの儚さというのが、その過去-現在-未来という一直線上にのっているように「コロンバス島」という不思議な島に集約されていて一つの物語になっている。
その不思議な世界はロールシャッハテストのインクのシミのようにじっと見ているとシミが動き出すような不気味さがあって、そして見る人によって一体それが何を表しているのかというのは変わっていくのかもしれない。

という訳であっという間に読んでしまった。感想を書くのはとても難しかったが、非常に面白いので是非手に取っていただきたい一冊。

小林泰三/百舌鳥魔先生のアトリエ

日本のホラー作家による短編小説集。
角川ホラー文庫から。
久しぶりに日本人の手によるホラーが読みたいと思っていたところ、Amazonにお勧めされたので購入。小林泰三は結構多作な作家らしいが、自分は大分前に「玩具修理者」という本を読んだことがあるだけだ。多分作者の代表作。クトゥルーを絡ませた恐ろしいながらもちょっととぼけた風味がある独特の作風だったのを覚えている。玩具修理者の呪文(?)が確か全部ひらがなで書かれていて面白かった覚えがある。

この短編集には全部で7つの物語が収められていて、2本はこの本のための書き下ろし。4本が2008年から2010年に発表されたもので、残りの一つだけは1998年発表とちょっと年代が離れている。何でも最後の一つは初期の名作として名高いとのこと。
ホラー小説は基本的には短編というフォーマットに向いている(勿論抜群に面白い長編ホラーも沢山ある。)というのは結構いろんなアンソロジーで著者だったり編集者だったりが述べていることで、(具体的に人名や書名をあげられないのが心苦しいところだ。)私もなるほど確かにそうだなと思うところがある。思うにホラーというのは非日常を扱うので、あまり綿密に長くやるとどんどん現実からかけ離れていって読者の意識を物語に固定するのが難しい、というのが理由の一つにありそうな気もする。
この本ではホラーの王道を行くようにどれも短編である。さてホラーといっても内実そのないようには結構幅があることはホラー好きな皆さんになら頷いていただけるかと。幽霊お化け、ゾンビなどのフリークス、シリアルキラーなどの異常な人間などの扱っている非日常達も沢山バリエーションがあるし、(私は適当しごくなのでとにかく恐いなと思ったら何でもホラーだと思っている。)、彼らとどう立ち向かうのかというところも様々な書き方がある。
この小林泰三という人は過去のホラー作品に敬意を払いつつ、自分なりのホラー世界を構築しているようだ。この短編だけでも7つの物語があるし、完全に言い切ることはできないだろうが、だいたい共通してきわめて生々しいホラーを書くようだ。生々しいというのは肉体的と言い換えても良いと思う。しっとりとした伝統的な英国怪談、うらめしやとした因縁深い日本怪談とはちがう。アメリカ産のスプラッターホラー映画のようなある種あっけらかんとした恐ろしさがあって、それは怪異は実体をもって人間に迫り、切断された手足から血しぶきが飛び散る様な、そんなイメージ。
まず肉体が傷つき、その描写の嫌らしさといったら中々ないといっても良いくらいである。いわば節操があって作品の中で残酷に人を殺しておいても、あえてその描写をおボラートに包むように描く作者は沢山いるが、この小林泰三はこの描写こそ恐怖の本質なんだといわんばかりに執拗に傷跡のその断面を描写するので、読んでいるこちらとしては吐き気を催す様な不快感を感じる訳だ。ひどい書き方だが、この嫌らしさはホラーの本質の一つの醍醐味である。スプラッター映画を見てその「痛さ」に目を背けることは多々あるが、文字だけでこれを再現するというのは中々ないのではなかろうか。これはすごい才能だと思う。
7つの作品はそんな人間の根源的な恐怖である「肉体的な痛み」を中心に据えつつ、多彩なホラーを展開している。クトゥルー、和風ホラー、吸血鬼、SFとその振り幅は大きく、どの作品も過去のホラーへのリスペクトがあってこその出来となっている。
特に気に入った作品をいくつか紹介。

ロボット対ショゴスを書いたクトゥルーホラー「ショグゴス」はなんといっても感情的で間抜けな大統領と賢いくせに空気の読めないとぼけたロボットの掛け合いが面白い。
江戸川乱歩っぽい昔風のホラー「首なし」。ある名家で三角関係から生じた悲劇を書く。なんというか全体に漂う下品なほどのやり過ぎなけれんみが読んでていて心地よい作品。
タイトルにもなっている「百舌鳥魔先生のアトリエ」はこの本の中でも出色の出来。コミカルさを排除したじっとりとした世界観の中で、窒息する様な不穏さがラストに向けて濃密になってくる。その息苦しさはなんともえいず、そこに作者お得意の「痛い」描写が見事に調和している。この不快さといったらすばらしい。

という訳で痛ーい描写が大丈夫、むしろ好きという人にはオススメの一冊。

2014年4月6日日曜日

Cloud Nothings/Here and Nowhere Else

アメリカはオハイオ州クリーブランドのインディーロックバンドの3rdアルバム。
2014年にCarpark Recordsからリリースされた。
かのステーィブ・アルビニが2ndアルバムをプロデュースしたりで結構話題のバンドらしいのだが、私はこのアルバム収録の曲で初めて彼らの音楽を聴いた。

インディーロックが一体なんなのかというのはちょっとわからないが、私はあまり聴かないジャンルだ。ちょっと気取った音楽性で斜に構えたお洒落さんがちょっと気怠い感じでローファイな音楽をリバイバルっぽくやる様なイメージ?インディーロックファンが見たら怒り心頭に発すること間違いないが、私の正直な印象はこんなもんで、言い訳する訳ではないが嫌いというのではなくなんとなくあまり聴いてこなかったが、不思議とこのアルバムの収録曲「I'm not Part of Me」を偶然耳にしてみるとおや、これがなかなか格好よいぞ、よっしゃ買ってみるかという訳なのだ。
ジャンルとしてはまあインディーロックなのだろうが、まあちょっと自分の言葉で説明してみようと思う。(wikiをみてもインディーロックの音楽性は全然わからんかったぞ!)
まあメロディを主体としたロックであることは皆さん納得していただけるかと思う。曲のほとんどはミドルテンポで進み、過剰に暴力的だったりノイジーだったり、超長いギターソロなどで特定の楽器が出しゃばることもない。楽器陣の音の作りは一見(本当は緻密に作っているに違いないけどさ)ラフかつローファイな感じ。さすがにアンプ直だ!(ミッシェルガンエレファントだ!)という訳ではないだろうが、生々しい音をなるべく新鮮な状態で耳に届けようというそういう魂胆だろう。格好いいよ。気取っているどころか結構直球勝負じゃねえか。うん、格好いいよ。

ドラムは中音が強調された、飾り気のない音質でもって、それゆえビートが楽しい、というドラムのアイデンティティをまざまざと見せつけるタイプ。
ベースはちょっとガロガロしたこちらも生々しい音で持って、ベースの役割をまずこなすぜという職人気質タイプ。
ギターが面白くて、がちゃがちゃした乾いた音でローファイなんだろうが、とにかくキャラキャラしていてコードを弾くにしてもこんなに気持ちよいのか〜とちょっとため息をつきたくなる様な感じ。ローファイってのはバンドってこういうのかあってのがよくわかるんじゃないかと思った。
そこにボーカルが乗る訳であるが、こいつがなかなかくせ者である。個人的に気に入ったのがこのボーカルである。彼が一番気取ってない。気取ってないどころかこの余裕のない感じはどうだ。焦って突っ走るように性急ではないか。何かに追われる様なボーカルスタイルでほぼ叫ぶ様な、がなり立てる様な必死さがある。ただしあくまでも自分の流儀で持って、例えば安易にシャウトやデス声など飾り立てるような劇的なスタイルに逃げることなく(いうまでもなく私はシャウトやデス声が大好きだということをここに御断りしておく。)、いわば自分の温度とやり方でもってストレートに吐き出した訳であって、これは格好良いねえ。クラスのまじめな奴が急に切れだしたみたいな意外性と真面目さがあってそれはまさに日常にあるちょっとした意外性という感じでよい。
そんな彼らが集まって作ったこのアルバムはいわば誰かの日記を読んでいる様な、地に足の着いた音楽性で持って、日常の悲喜こもごもの延長線上にあるとでもいおうか、なんとなくわかっちゃう様な、そんな感じの親しみやすさに包まれている。
聴いてて単純に気持ちよいのだから、私としては完全やられてしまった感じ。

インディーロック(笑)なんていって馬鹿にしていて本当ごめんなさい、という感じに格好よいアルバムでした。
バンド音楽が好きだ!という方にはたとえメタラーであろうがパンクスであろうがハマるのではないでしょうか。
オススメっす。

Left for Dead/Devoid of Everything

カナダはハミルトンのハードコアバンドのディスコグラフィー盤。
ジャケットが何ともお洒落!
2013年にA389 Recordingsからリリースされた。
私自身は全くこのバンドのことを知らなかったのだが、最近紹介したSeven Sisters of SleepやFull of Hellがとても良かったので、リリース元であるレーベルA389 Recordings所属のバンドをチェックしている中で見つけた。
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996年から1998年というかなり短い活動期間にも関わらず伝説的なバンドのようで、バンド解散後メンバーはCursedやBurning Loveなどなどのバンドで活動しているようだ。

ジャンルとしてはハードコアなのだろうが、ほぼ全編暴力的な速度で突っ走るバンド。曲の速度は速いし、楽器陣の演奏はかなり重ためだが、グラインドコアの様なメタリックさは希薄でファストコアやパワーバイオレンスに近い。例えばニュースクールハードコアのようなメロディアスも皆無で、ひたすらがなり立てるタイプ。
ドラムは低いバスドラと対照的に比較的軽いタムがタスタス連打されるパンキッシュなスタイルでビートが気持ちよい。
ギターが面白くて基本はハードコアの雪崩のように弾きまくるスタイルなのだが、要所要所で繰り出されるリフが格好よい。メタリックというよりはハードコア由来なのだが、妙に耳に残るキャッチーかつグルーヴィなリフが印象に残る。フィードバックノイズも多めなのは個人的に好印象。たまに現れるちょっとスラッジっぽいパートもギターの音自体が結構重めなので迫力があって良い。ギターが2本いるので、重たい音に突き刺さる様なノイジーな高音をかぶせてきたりして意外に技巧派なんじゃないかとも思う。
そしてボーカル。これは吐き捨てるようなハードコアスタイルで終始叫びっぱなしのブチ切れたスタイルで、こちらもギター同様単語を吐き出した後の伸びがとにかく格好よい。適度にしゃがれていて、迫力満点!ハードコアスタイルのボーカルはデス声に迫力で劣ると思っている方がいたら是非聴いていただきたい。メタルのボーカルではなかなかこのやけっぱち感は出せないのではなかろうか。
曲はすべて1分台かそれ以下でぼんやり聴いているとあっという間に次の次の曲にいっている。スタイルはラフかつシンプルだが、曲は短いながらも展開が面白くて結構詰め込んでいる印象。ちょっとカオティックハードコアのような雰囲気もある。
「すべての欠落」というタイトル通り破滅的な音楽で、地獄に向かって一直線に急降下していく様な、崩壊寸前の危うさの様な緊張感が全体に漂っていて、殺気が半端無い。焦燥と怒りがそのままバンドアンサンブルにのって飛び出した様な凄まじい音楽で聴いていると、なんかこう熱いものがこみ上げてくるようだ。

という訳で滅茶苦茶格好よいハードコア。
劇的にオススメですよ〜。


パオロ・バチガルピ/第六ポンプ

アメリカの作家によるSFの短編集。
「ねじまき少女」はどえらく面白かったので、同じ作者の短編集は当然気になっており、このたびめでたく文庫化されたので歓声を上げつつ購入した訳だが、これがもうすごい本なのであって私は感動に震えたね。

変わった名字のパオロ・バチガルピはアメリカで生まれたが、大学在学中に中国に留学し、卒業後もしばらく中国で働き、その後アメリカに戻って働きつつ作家として活動し始めたという経歴を持った人で、だから前作の長編「ねじまき少女」ではタイを舞台にしていたし、今回もアジアが舞台の物語が結構ある。そのアジアの猥雑な描写がまた恐らく実体験をもとに書かれているものだから生々しいことこの上ない訳である。作者自身はアジアでは異邦人である訳だから、本国の人が当然として見落としてしまう様なところも丁寧に描写できているのだと思う。いわば未知のアジアを紹介する様な面白さもあって、だからアメリカや日本でも(勿論日本もアジアなのだが)彼の小説が受け入れられているのではないかな。当然彼の著作では少なからず(アジアにおける)アウトサイダー達が出てきて彼らが巨大なアジアに文字通り立ち向かう姿は大いに共感できる。
さらに舞台となるのが、未来となるアジアである。遺伝子捜査されたフリークスが闊歩し、路地裏に潜むヤクザものたちはゼンマイ銃で武装している。一回完膚無く破壊された世界で生きる人々はたくましく、強い。凶暴で残忍で弱いものから殺されていく無慈悲な世界。華やかで露骨に猥褻なネオンの世界、屋台で作られる湯気のたつ庶民の飯(本当ご飯の描写が超巧みで読んでいるととにかく中華料理が食べたくなる。)、それらの薄皮の下には熾烈な生存競争がバチバチ火花を散らしているのだ。持たざるもの貧乏人は惨めに死ぬしかない。そんな一周回った(エネルギー事情により科学技術は大きくねじれている。)サイバーな世界観が見事に現実のアジアのたくましくも猥雑な世界にオーバーラップし、本当に頭の中にある雑多なアジアの町の角を一つ曲がったその先に、パオロ・バチガルピが描く世界が展開されている様な、そんな生々しさがある。SFの面白さの一つには絶対世界の構築があげられると思うが、パオロ・バチガルピの作り出す世界観だけでご飯何杯でもいけるわ、俺的なすばらしさがある。

さて今回の短編種ではおおむね上記の様な、「ねじまき少女」と共通する世界観で展開される物語も含め全部で10編が収められている。はっきりと「ねじまき少女」につながる物語もあって、没落した華僑のチャンがファランに仕えるまでの顛末を描いた「イエローカードマン」。遺伝子特許(IPつまり知的財産)で世界を牛耳る巨大なカロリー企業に在野の遺伝子ハッカーが戦いを挑まんとするそのその顛末を、彼を逃がそうとする運び屋の視点で描いた「カロリーマン」など。「ねじまき少女」を読んだ人ならニヤリとすること請け合いの短編も含まれている。
しかしなんといってもそこにとどまらず、さらに幅を広げた作品群もすばらしい。
巨大建造物が生きて成長して拡張する中国を舞台にした熾烈なとある「キューブ」の争奪戦を描いた著者のデビュー作「ポケットの中の法(ダルマ)」。主人公が少年ということもあって残酷な世界でも憎めないきらめきがあって良い。「キューブ」の正体にはゾクゾクした。
「砂と灰の人々」では荒廃した未来の兵士達が主人公。彼らは体内にゾウムシを飼い、灰や石、砂などを食って生きている。体は頑強で手足が千切れてもすぐに再生する。彼らの前に犬が現れてその脆さに驚愕しつつ、飼い始めるという物語。先鋭しすぎた文明化に対する批判なのかと思ったが、驚愕のラストには驚かされる反面妙に納得しなかっただろうか?彼らは人間なのか。しかし人間なのかもしれないと思った。深化の残酷な一面なのか?
夫婦間での突発的な殺人を書いた「やわらかく」はあまりに穏やかな進み具合がなんだか妙におとぎ話の様な雰囲気があってそれが妙な背徳感を演出している。主人公はサイコパスなのだろうか。
短編集のタイトルにもなっている「第六ポンプ」。少子化が進み、それ所が人類全体が愚かになっていく世界を書いた作品。主人公2人のカップルは愛らしく何となく良い話に思えるが、とんでもない暗い未来を予感させて恐ろしい。

本当10編が全部面白い。音楽でいったら捨て曲なしの完璧なアルバムであろう。なかなかないよ、こんなの。
ほとんどの作品に共通するのが発展しすぎた未来の暗い一面である。はっきりディストピアと化した凄烈な世界を描いたものから、何となくくらい予兆をはらんだものまで、多種多様である。未来は暗い。しかし安易に科学至上主義を批判する訳ではなくて、いわば常に発展し続ける人間の業を善悪(発展による利点も時に多少露悪的ながらしっかり書いていると思う。)どちらかに偏ることなく真摯に書き出しているように思える。それは確かにグロテスクだが、ちょっと待って一体それを完全に悪として現代に生きる貴方が否定できますかね?と問いかけてくる様なそんな恐さがあるように個人的には感じた。
一見突飛な未来が人間の意識という直線で現在から連続してつながっている様な、そういったイメージ。だからこそ作者が描くディストピア的な未来が面白く、嫌悪を感じる人もいるのだと思う。

個人的には今年で一番くらいに面白かった。
いろんな人に読んでいただきたい本。劇的にオススメ。
と、思ったら読書メーターというサイトではダメだ〜という感想もチラホラ。
たしかに全般的に暗くて、汚くて、描写が残酷だから人を選ぶのかも…
上記がむしろマイナスじゃなくてプラス要素だろ!というポジティブな人は是非どうぞ。
(でもストーリーがないという感想には納得できないのだが。)

ジーン・ウルフ/ケルベロス第五の首

アメリカの小説家によるSF/ファンタジー小説。
国書刊行会からでている単行本、その怪奇なタイトルが前々から気になっていて購入。
始めこの本を知ったときはそのタイトルに首を傾げたもので、当然地獄の番犬ケルベロス(RPGゲームを始め日本の創作物にはよく出てくるので知っている人も多いと思う)には三つの首があるので、「ケルベロス第四の首」ならわかるが第五と来たからには大分人を食った題名だと思ったものだ。
3つの異なる中編が収められていて、微妙に関連のあるそれら全部を読み終えると、本文に書かれていないある事実が浮かび上がってくる、というマニアックな作りになっていて、一部の本好きの間ではとても有名な本なのだとか。

遥か未来、人類は地球を飛び出しその版図を大きく広げていた。
双子星サント・アンヌとサント・クロアに移住した人々はしかし、母星との繋がりはむしろ希薄になり中世フランスの様な独自の世界を作り上げていた。
この2つの星には伝説があって、人類が移住する前には何物にも姿をかえることが出来る原住民が住んでいたという。「アボ」と呼ばれるそれらは移植してきた人類によって全滅させられてしまった。しかし実は逆に人類を絶滅させた彼らは自分でも「アボ」であることを忘れて今でも成り代わった人類として生きながらえているという。
サント・クロアの妾館の息子「私」こと第五号は弟デイヴィッド、妙な家庭教師ミスター・ミリオン、叔母、そして父親との暮らしの中で自分が父親のクローンであることに気づく。夜ごと繰り返される父親からの尋問で記憶と意識に変調を来す中で「私」はある決心をする。

上記のあらすじは最初の短編「ケルベロス第五の首」のもの。他に「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」、「V・R・T」という2編が収録されていて、それぞれ同じ世界観の中登場人物の何人かを共有しつつ別の物語が展開していく。
ジャンルとしてはSFなのだろうし、実際現在とは大きく隔たった未来の話ではあるが、あまり本格SF的なガジェットはでてこない。舞台となる星の世界観は未来というよりは過ぎ去った中世を彷彿とさせるもので、なんとなくセピアでカビ臭いような、そんなイメージ。そこに宙船と呼ばれる宇宙船や、人格を転写されたロボット、クローン技術などたまに未来の技術が出てくるわけで、新旧おり混じった独特の世界観が展開されている。
「ケルベロス第五の首」以降の二編に関しては一遍が民話の体裁を取ったもの。謎の原住民「アボ」に関するものでインディアンの物語のようにかなり独特の世界観で一見まったく本格SFさはない。(しかし最後まで読んだ後には実はこの話が一番謎に関する示唆に富んでいるようで、隠されたSF成分に大分うち震えた。)最後の一遍はとある囚人に対する(原始的なというか未来的ではない)執拗な尋問と、囚人に関する資料の断片が同時進行で描かれている。何となく稚拙な印象がする野蛮な尋問と奴隷(サント・クロアの方にはなんと奴隷がいるのだ!)に対する士官の態度は読んでいて結構嫌な気分になる。

さてこの本の最大の面白さは一見バラバラの3つの物語の中心には一つの大きい謎が設置されていることに他ならないと思う。結論から言ってしまうと最後まで読んでも結局謎の招待が一体なんだったのかは書かれていない。しかし、3つの物語から推察するとおぼろげな真実が見えてくるらしい。らしいと書いたのは私も一回読み終わってもはっきり理解しているとは言いがたいからである。ネットで検索してみるとやはりこれがはっきりとした真実です!というのはなく、ある程度から先は読者の方がそれぞれ結論を導きだしているようだ。(本書の後書きにもあるが海外には研究サイトもあるらしいが私は見ていないので本当は確固たる真相があるかもしれない。)
いわばミステリーの要素もあるのだろうが、どちらかというと芥川龍之介の「藪の中」ではないが、錯綜する情報を整理して結論を推察する様な楽しみがあって私も残念な頭を使って色々と考えてみたのだが、ネットではされに深く精緻な考察をされている方々がいて恥ずかしい気持ちである。
一体私は誰なのだ?という疑問にはしかし誰も答えることが出来ないのだろうし、今日の私が今日産まれたということを否定することは出来ない(のだっけ?)。自己認識の不確かさは哲学的だが、アイデンティティの曖昧さは伝統的なSF的命題ともいえる。そういった意味では文学ではある種普遍的なテーマを壮大な箱庭をこしらえてそっと謎を提示してくる様な趣があって、つくづく丁寧に作られた作品だと思う。

すっきりする本しか読みたくない、という人にはお勧めできないが不思議な話が読みたいという人は是非。ノスタルジックな雰囲気のそこかしこにふと見えるSF成分がたまらない一冊。