2014年8月24日日曜日

ローレンス・ブロック/殺し屋

アメリカの作家によるハードボイルド/ノワール小説。
原題は「Hit Man」で1998年に出版された。

ニューヨークのアパートメントで一人暮らしする男、ケラー。彼の職業は殺し屋。ホワイト・プレーンズからの電話で依頼を受けると全国どこへでも飛んでいき、なるべく穏やかに目的を完遂する男。性格は穏やかであくまでも殺しは自分の仕事ととらえる、そんな男。

今作は主人公ケラーが活躍する連作小説。全部で10の短編が収められている。
皆さんは殺し屋というとどんな人物を想像するだろうか、全身黒づくめの恐らくスーツを着ている。ハットを被っているかもしれない。細身で美形だが表情は乏しく無口である。暗がりで人の後をつけ、気づいたときには銃をぬいている…そんな男?
さて実際に殺し屋という仕事はあるだろうが(職業かどうかはわからんが)、おそらく殺し屋はそんな姿をしていないだろう。この本に出てくる殺し屋ケラーは前述の様なスタイルではないが、概ねそんなタイプの人物である。翻訳した田口俊樹さんも後書きで書いているが、恐らくそんな殺し屋はいない。なのであくまでもこの本に出てくる殺し屋というのはフィクションであり、ある意味ファンタジーでさえあるが、この本は生々しい殺しの物語を書く本ではない。帯の推薦文は伊坂幸太郎さんが書いている。伊坂さんの本を読んだことがある人はご存知だろうが、ちょっととぼけた殺し屋達が出てくる。彼らは現実離れしているが、その原型の一つが恐らくケラーなのであろう。彼らほど特異ではないが。
ファンタジーな殺し屋というのはどういうことだろう。この本始めの何編かは話の主題に殺しがおかれているが、次第に殺しの仕事が本質ではなくなってくる。段々ケラーによる殺人が脇におかれがちになってくると言ったら語弊があるだろうか。
理由の一つにケラーのすっとぼけた性格があるだろう。殺しの腕は問題ないが、犬を飼い出したり、自分の正体を知る女と同棲を始めたりする。しまいには引退した後の身の振り方に不安を抱き趣味を探そうとしたりする。(で、切手集めに落ち着く。)こんな殺し屋いないだろう。ケラーは人を殺すことにそこまで罪悪感がある訳じゃない。ある意味結構サイコな野郎だが、殺人が好きな訳ではない。全く感情的にならずに人を殺すというのはよくフィクションに出てくる優れた殺し屋に対する形容だが、それがここまで当てはまる殺し屋というのは恐らくケラーをのぞいてそういないのではなかろうか。本当にビジネスしにいくくらいの気持ちで仕事に出かけるのだから。なんて殺しにくい奴だと思っても殺しそのものにどうと思うこともないらしい。(悪いことをしているという自覚はある。)だから別にターゲット以外の人たちともまあ普通に接することが出来る。目立たないようにはしているが、結構ドジを踏んだりもする。要するになんだか妙に人間的なところと、機会じみた冷酷さが同居した不思議な男なのだ。結果ちょっとそれがとぼけた人物像になるあたり、作者の腕によるところなのか、意図せずそういった男になってしまったのかは分からないが。
そんな男が殺しという仕事を通して、始めは殺しという仕事それ自体、しかし次第にもうちょっと視点が高く広がっていく。小さい個人の視点を通して社会を描くというのはスカダーシリーズでもそうだったが、作者ローレンス・ブロックの得意技である。しかも孤独だったりアウトサイダーだったりするから、その感じ方はちょっと常人と異なる。ブロックははっきりと文明批判をする訳ではないが、何かしらこれで良いのか?という訴えかけがあるように思う。ただ自省的なスカダーに比べるとあっけらかんとしているケラーの作品の方がカラリと読める。
とぼけた殺し屋の活躍という感じで、題名ほど殺伐とはしていない。面白い読み物を探している人はどうぞ。

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