2015年1月31日土曜日

コーマック・マッカーシー/平原の町

アメリカの作家コーマック・マッカーシーによる「すべての美しい馬」「越境」に続く国境三部作の最後の作品。

1940年代、19歳になったジョン・グレイディ・コールはメキシコとのテキサス州のメキシコとの国境近くにあるもうじき軍に接収されてしまうマック・マクカヴァン牧場で、ビリー・パーハムらとともにカウボーイとして働いていた。ある日カウボーイ仲間とともに訪れたメキシコの娼館でひとりの少女の娼婦に目を引かれたジョン・グレイディは、後日彼女を探すが店から姿を消していた。夜の町で奔走して彼女・マグレダーナの居所を突き止めて逢瀬を重ねるジョン・グレイディは彼女を身請けする事に決める。ビリーらは彼をいさめようとするが次第に彼の情熱に打ち負け、ジョン・グレイディの道ならぬ恋を応援する事にする。

今回は「馬」の主人公ジョン・グレイディ・コールの物語、脇にいるのが「越境」のビリーというファンには鉄壁の布陣はまさに三部作の最後にふさわしい。
「越境」はずーーんと重たい小説だったからまず今作の瑞々しさにはビックリ。ひたすら苦難の道を馬に乗って歩んだ哲学的な前作に比べると、失われ行く最後のカウボーイのフロンティアの荒々しくも美しい景色の中で、まだ若いジョン・グレイディの恋に焦点があたられている今作は読み口も軽やかですらすら行ける。

マッカーシーが何故今とはちょっと違った世界を書くのかというとそれは既に失われてしまった世界自体を書くのが目的な様な気もするのだが、個人的には荒々しい世界の本質が現代だと少し見えにくくなっているからではなかろうかと思ったりした。ごく簡単に言うと自然が多くて、視界が開けているのがちょっと昔。楽園かというと次第に文明に取って代わられる予兆が既に見えていて暗い雰囲気もちょっとある。だからこれから無くなってしまう自然と世界の本質みたいなのの哀切ってのがあるのでは。兎に角マッカーシーのこの三部作では親善の描写が美しい。文体の向こう側に見える景色の壮大さに目を見張るような描写があってそれがわたしに取ってはもの凄い魅力なのだ。しかし美しいだけでなくいかにその世界が残酷で血と骨(と豊無しと同じ暗い豊かな死)によって成立しているのかというのをあくまでも、直接的な言葉ではなくて生き生きとした動物の生き様を描写する事で描こうとしている。良いとか悪いとかではなくて、暖かくて(熱いくらいかも)そして残酷なのが世界なのだ、と言わんとしているように感じられる。
そんな世界で特異な存在が人間であって、おおよそ悲劇というのも人間がいるから起こるんですよ、というように悲劇を書くのがマッカーシーで、今作も娼館の経営者エドゥアルドという悪漢を登場させていて、こいつがジョン・グレイディの輝かんばかりの恋愛に暗い影を落とす事になる。このエドゥアルドというのはおよそビジネスマンらしくない不可解な執着があって(恋愛というのが不可解な執着なのだから、ジョン・グレイディと同じくマグダレーナに恋をしているとしたら仕方の無い事ではあるのだろうけれど。)、若くて前途のある若者2人の前に立ちはだかる訳である。カウボーイだろうが娼婦だろうがそんな事は関係なくて、悪意という奴がたとえ幻であっても(周りの人はジョン・グレイディに恋愛や結婚なんて幻だぞと忠告するのだ。)幸せというのを害してしまうのだ。
だからマッカーシーの小説には二重の残酷さみたいなのがあって、結果とても悲しい物語になるのかもしれない。因に「平原の町」の由来は聖書のソドムとゴモラのことだそうだ。

巻末に書評家の豊崎さんがキャラ萌え小説としても読める!と書いていて彼女は主人公ジョン・グレイディのかっこよさについて語っている。なるほど〜と思ったが、自分は圧倒的にビリーが良かった。(男性目線だとビリーがいいのかも。)なんせあの前作、長く思い旅路をビリーと一緒に旅をした様な気持ちになっているから応援せずにはいられない。16歳だったビリーも28歳になっていて、あんなに辛い思いをしたのに後輩思いの優しい男になっている。直情径行のジョン・グレイディのなかに生き別れ、亡くしてしまった弟ボイドを見ていて本当に肉親のように可愛がる。特にジョン・グレイディのために2回も娼館を訪れエドゥアルドと対峙するシーン(特に後半の娼館〜警察署の流れがヤバい。)は熱すぎて涙が込み上げてくるようだった。


相変わらずの文体だが、さすがにもう慣れたのか全然気にならず最後まですーっと読めた。黒原敏行さんの翻訳も簡素ながら読みやすくばっちり。
「馬」と「越境」はどっちから読んでも良いと思うけど、これを読む前には絶対その2作は読んでおかないと駄目だと思う。もしこの本が気になった人は長い旅になると思うが、前の2作のいずれかから是非どうぞ読んでみてください。とっても素晴らしい体験ができる事は保証します。
文庫になったのは全部読んだから次は「ブラッド・メリディアン」かな〜。

2015年1月25日日曜日

マイ・シューヴァル ペール・ヴァールー/刑事マルティン・ベック ロセアンナ

スウェーデンの有名な警察小説マルティン・ベックシリーズの第1作目。
1966年に発表され10作目まで続いた人気シリーズで、刑事ヴァランダーシリーズの作者ヘニング・マンケルが大きく影響を受けた本でもある。本邦でも翻訳の上発売されたが、(今知ったんだけど)原点から英語に訳したものををさらに日本語に訳していたそうな。
その後2013年に原点から直接訳したシリーズ第4作目の「笑う警官」が日本で発売され、今回はその第2弾ということで栄えある1作目が新たに訳されて発売された訳。

スウェーデンのモーターラの水門で全裸の女性の変死体が発見され、他殺である事が判明。モーターラ署は捜査にあたりストックホルムからマルティン・ベック刑事らを招聘し共同戦線を展開するがやはり解決の糸口は見つからず、事件はこう着状態。ストックホルムに戻ったベックの元にアメリカの警察から被害者の情報が思わず到着し、とまった捜査が動き出す気配を見せ始めた。

昨今隆盛を見せた北欧警察小説だが、この物語は前述の通り60年代に発表されたもので流行とは無縁の硬派なもの。勿論携帯電話なんてないし、ベックたち警察官は文字通り歩き回って、きき回って捜査を進める事になる。
作者の一人が女性という事で主人公ベックの家族の書き方が面白い。何か特別不貞や事件がある訳ではないが、なんとなく停滞感が漂う中年夫婦の状況を極めて観察的に書いている。これが男性作家ならもっと明確な”出来事”を展開して何かしらの決着をつけそうなものだが、あくまでも現実に即した様な作者の視点は曖昧模糊として表現する事が難しいが確かに存在する夫婦の微妙な緊張をはらんだ日常的な関係をベックの些細な行動や心情を上手く使って表している。ひとつはこれで兎に角マルティン・ベックという男が有能であっても一人の一般的な男性である事が強調される。フロスト警部のように破天荒でもないしゔ、ヴァランダーのように癇癪持ちでもない。もちろん腕っ節が強い訳でもないし、銃も撃たない。警察官と言っても熱血ねないで働きますという感じではなく、どことなく日常に倦んでいる中年の公務員と言った感である。まるで現実の刑事(勿論現実の刑事とはかけ離れているんでしょうが)がそのまま神の上に出て来た様な地味さである。なんというかうだつの上がらない、が個性にすらならない普通さだ。
しかしそんなベックは実はその身のうちに粘り強さと正義の心を持っていてロセアンナという一人の女性が殺された事を沢山ある事件の一つとして風化させる事無く、解決に向けて一歩一歩進んでいく訳である。もう滅茶カッコいいではないか、その姿は。
大きく分けてどう見ても難事件である様相を呈して来たがあきらめずに犯人をさがす前半と当たりをつけた容疑者を追いつめる後半に分かれるのだけど、個人的にはどこにある川から無いゴールに向かって歩き続ける様な不安かつ地道な前半が面白かった。殺人事件という困難さの根底の部分が飾らない言葉でどっしり横たわっている様な、そんな印象。今とは違って科学捜査が発達している訳でもない60年代、ベック達は証拠を集めつつも被害者のロセアンナという人間が果たしてどんな人間だったのかというところにも迫っていく。より個人的な捜査とも言える。ベックの夫婦関係と同じく、淡々と人間を書いてその善悪を断罪しない様な作者の書き方にはとても好感が持てた。もちろん事件はきっちりまとめる潔さもあって、本当に骨太である。

現代の警察小説の派手さは皆無だが、それでいて警察小説の魅力がぎゅっと圧縮されているような物語。このジャンルが好きな人は是非どうぞ。

2015年1月24日土曜日

USA out of Vietnam/Crashing Diseases and Incurable Airplanes

カナダはケベック州モントリオールのロックバンドの1stアルバム。
2014年にイギリスAurora Borealisからリリースされた。
CDは装丁が美しいらしいがわたしが買ったのはデジタル版。
オフィシャルもwikiもないのでバンドの事はほとんど分からない。写真を見るに女性一人含む5人組のようだ。音楽性も中々一筋縄では行かない。彼らのFacebookページには「Genre: Heavy, psych, doom, epic drone pop」と書いてある。
始めにいっておくと大変素晴らしい音楽をやっていて、わたしは音源を買って良かったなと思っている。
それではつたない言葉だが、だいたいどんな印象を持っているか書いていこうと思う。

まず今回のアルバムは全5曲収録されている。1曲だけ7分台の曲があって、あとはすべて10分を超えている尺の長い曲で構成されている。
所謂ロックバンドの編成の用で音も基本はバンドアンサンブルからなっている。
曲スピードは決して速くない。むしろ中速から低速がメインである。
低音はかなり厚めでギターの作り出す低音主体のリフは巨大な壁の様な迫力がある。
音の取り方が贅沢で低音がずずずずーーーっと尾を引き伸びる要素は間違いなくドローン然としている。
ここまで書くととんでもなく重苦しいドゥームメタルバンドというぼんやりとした輪郭が浮かび上がってきる。実際彼らはそうであると思うが、それだけにとどまらない不思議な音楽性を持っている。前述のジャンルを見ていただけると分かるが、エピックかつポップですよと書いてある。正しくそうなのだ。デス声は全く入っていないし、撤回の様な無骨な演奏の中にも劇的な展開がある。ギターは物悲しくも流麗なメロディを奏で、男女混声のコーラスも入る。エピックでポップなドゥームメタルとは一線を画すその音楽性は、知的さも感じられてどこかしらポストロック的な側面があると思う。
重くてじゅらじゅらしたギターの音は同郷のNadjaを思わせるし、重たさの中にも残虐性ではなくて空疎なメロディが光る部分はCult of Lunaにも通じる。全体的に漂うジャンルにとらわれない一風変わった雰囲気はちょっとだけKayo Dotに似ているかも。(こっちはジャズ成分はほとんど感じられないけど。)
面白いのは五月蝿いパートとちょっとサイケでドリーミーなエピックパートを分かりやすく分けていないところで、展開はゆっくりと変わっていく様なイメージなのだが、その中で不思議にヘヴィさとポップさが同居しているところ。だから変な話分かりにくい部分を飛ばしてポップなところだけ聴くみたいな聴き方はできないんじゃなかろうか。
ストリングスや女性の高音でクワイアのように歌うところが自然とヘヴィなバンドアンサンブルと調和していて面白い。
個人的にはやはり分厚いギターがお気に入り、たまに入る狂った様なワウを聴かせたしゅわしゅわした目まぐるしいリフもすごくカッコいい。

たとえば純粋なメタルのようにすごく怒っているとかすごく悲しんでいるとか、分かりやすく南下の感情に傾いている音楽性ではないから中々形容しにくいが、それ故の複雑さと曖昧さがあって兎に角そこが魅力なのだろうと思う。
オフィシャルの写真を見るとアンプが壁のようになっていてもの凄い。きっとウルトラヘヴィなライブをやるのだろうな〜。
因に妙なアルバムタイトルは「病気の衝突と不治の飛行機達」。ようするに「飛行機の墜落と不治の病」という文字列の形容詞をくるっとひっくり返したものだと思うのだが、ここら辺にもバンド側の少し変わったユーモアセンスというか諧謔精神が見て取れて面白い。
なんとも変わったバンドが出て来たものだが、曲のセンスはハイクオリティ。わたしが知らないだけかもだが、ちょっとこういうバンドは中々いないんじゃないでしょうか。非常に気に入りました。オススメです。変わっているけどそれだけじゃなくてちゃんとカッコいい音楽好きな人は是非どうぞ。
兎に角1曲目の「Archangel」がとても美しくこれが切っ掛けで購入した。

ジャック・ケッチャム&ラッキー・マッキー/わたしはサムじゃない

日本でも知名度のあるホラー作家ジャック・ケッチャムが映画監督ラッキー・マッキーと手を組んで映画の脚本用に描いた連作の短編が2つに、独立した短編1つを収録した短編集。
ケッチャムは高校生の頃ある意味神格化された「隣の家の少女」を読んで以来のファン。コンスタントに邦訳されている本を買っては楽しく読んでいます。
聞き慣れないラッキー・マッキーという人はホラー映画の監督でケッチャムの作品が好きでファンレターと自分の作品を彼に送ったところ、ケッチャムもマッキーの作品を気に入り意気投合、以降ケッチャムの「ザ・ウーマン」を映画化したりとタッグを組んで活動しているようだ。
ケッチャムの作品は「隣の家の少女」を始めいくつか映画化されているらしいんだけど(多分私はどれも見た事が無いと思う。)、今回メインになる「わたしはサムじゃない」という話は(どんな役割分担なのかはちょっと分からないのだけど)共作であるという事と、最初から映像化を視野に入れて作られているという事もあって、今までのケッチャム作品とはちょっと趣が異なる。

パトリックはグラフィック・ノベル作家として生計を立てている。監察医のサマンサ(サム)とは結婚して8年経つが未だに夫婦仲は良く、パトリックの愛猫老いた牝猫ゾーイと2人と1匹で郊外の家に幸せに暮らしていた。ある日目覚めると妻サムの様子が一変し、自分はサムではなくリリーだと言い張り、まるで幼児返りしたような言動を取り始める。途方に暮れるパトリックだったが、なんとかサムを取り戻そうと奮闘を始める。

パトリックは仕事にあぶれている訳でも飲んだくれな訳でもない。暴力的な性的嗜好も無い。サムとの暮らしはし合わせそのものだから今までのケッチャム作品の登場人物からしたらかなり異色の好人物。変わってしまったサムを取り戻そうとするのだけど、医者に見せても埒が明かないと思ったサムは自宅でリリーと奇妙な共同生活をはじめることになり、かなり丁寧に2人の毎日を書いていき物語が進んでいく。癇癪もちの(年齢を考えると仕様がないのかも)リリーに合わせて川に泳ぎにいったり、ご飯をつくったりとのどかな毎日が流れていくが、パトリックの方は不安と焦燥は募るばかりで仕事も上手く行かなくなってくる。表面化では独特の緊張感がぴりぴりしている。パトリックとリリーの関係は一見比較的若い父親と無邪気な娘のそれと見えなくもないが、体は勿論成熟した妻のものだし悶々とするパトリック。この構図はなんというか、結構これ自体グロテスクである。別にサムとリリー、パトリック誰かが悪い訳ではないからよりいっそうたちが悪いとも言える。
そんな悪夢的な状況が大きく進展する「リリーってだれ?」ではこの混乱劇がの顛末が書かれている。ケッチャムは序文で1編目の次に2編目を読む前に少し時間をおいてほしいと書いている。

「イカレ頭のシャーリー」はアメリカの田舎で労働者階級の夫婦の間の諍いをその隣人達も含めて書き出したケッチャムの代名詞ともいえるどうしようもない感情の爆発が過剰な暴力によって発露する様を”軽妙”に書き出している。この軽さがケッチャムである。

本編もさることながら長くケッチャム作品を訳して来た金子浩さんの解説が個人的にはとても良かった、ケッチャムの魅力の要点を実に簡潔に書き出していると思う。ケッチャムの宗教観も把握できてファンには嬉しい。(ケッチャムは通常Godと書くところgodと書くそうだ、何故かは是非読んでほしい。)
今作はケッチャムの新境地で、たしかに一見何とも形容できない状況に戸惑うが、その根底に流れているグロテスクさは確かにケッチャムのものと個人的にはとても楽しめた。内容も短いので気になる人は読んでしまった方が速いと思います。

ジェイムズ・トンプソン/白の迷路

フィンランドのヘルシンキを舞台にした北欧警察小説の第3弾。
気づくと出版されているカリ・ヴァーラシリーズ3冊目。
比較的まっとうな警察小説だった1作目、暴力性に舵を切った2作目。今作はさらに2作目の作風を押し進めつつ新境地に切り込んでいる。

フィンランドはヘルシンキで警察官を勤めるカリ・ヴァーラ警部は絶え間ない頭痛に悩まされていた。原因となる脳内の腫瘍を手術で取り退く事には成功したものの、自分の感情が一切消えている事に気づくカリ。産まれたばかりの娘と愛する妻との関係に悩むカリだったが、警察庁長官であるユリ直々の命令で非合法の任務に就く特殊部隊を結成する事に。さしあたっての任務は犯罪者から麻薬や銃器、金を非合法に奪うこと。奪った金はユリを始めとする上層部に渡り、残りはカリ達の活動資金になる。頭はいいがコミュニケーション能力に何のあるミロ。腕っ節が強く人に暴力を振るう事に何も感じない大男のスロを部下にカリ達は犯罪者を襲い、資金を集めていく。そんな中移民擁護派の政治家が殺され、カリ達は捜査を命じられる。移民と移民受け入れ反対派の間で血で血を洗う報復合戦が始まる中、カリ達は事件を解決できるのか。

帯にこれは北欧の暗黒小説(ノルディック・ノワール)ですよ、と書いてあるがなるほどと頷く内容になっている。警察内での非合法の組織を結成したカリ達の任務は主に暴力の行使になる。勿論ITを始めとするデジタル技術が発展した現代の警察小説では科学捜査が大きな根幹となる訳だけれども、それでも基本は結果は脚で稼いでくるスタイル。警察官としての強み(民間人以上の権力だったり組織的な捜査だったり)と弱み(証拠や捜査令状が大きな力となり制約となったり)に翻弄されつつゴールに向かっていく訳である。
ところがカリ達は警察庁長官の後ろ盾もあって令状や法律なんて気にしない。文句は銃器と拳で叩き潰す訳である。これは真っ当な警察小説とは言えない。とはいえ、例えばエルロイの大作「ホワイト・ジャズ」なんかの例もあって、通常のルール無用で突っ走る悪徳警官が主役の警察小説というのはちゃあんと存在して、もちろん大変面白いのである。
前作もそうだったが、北欧の国が抱える問題を特に色濃く書き出す物語になっていて、今回はずばり移民問題。移民の問題というのは例えばヘニング・マンケルのヴァランダーシリーズを読むともうはっきりと国家の抱える問題として書かれている。(私は不勉強だったが、もちろんマンケル以前にも沢山書かれて来たのだと思いますが。)作者トンプソンはアメリカ人でフィンランドからしたら異邦人だからかなり冷徹な目で持って”楽園”フィンランドの実体を辛辣に書いている。移民が受ける差別。移民を排斥しようとする輩の醜さ(明確に反移民排斥派の立場でこの小説は書かれていると思う。)。ネオナチまで出てくる。作者の思いや立場は反映されているが、移民がもたらす社会的な影響を個人とそれよりやや広い視点で書いているので状況把握がしやすく、思うところが結構ある。日本は差別が無い国だとどこかで聞いたことがあるが、その時から絶対嘘に決まっているだろ〜と思っている。出生率がさがれば外から人を連れてくるのは選択肢の一つとしてあがってくる訳で、残念ながら人種が違えば摩擦が生じるのは必定である。一方で国家の純血性にもある程度共感できるところもあって、なんかもうよくわからない。そういう事をこの本を考えても良いかもしれない。

暗い内容ではあるけれども悪には悪で対抗というのは結構清々しくて意外に読後感は良い。途中で武器の展覧会的な場面が出て来たりと、過剰な男らしさというのがシリーズに一貫して描かれていて正直なところそこの部分はちょっと自分の趣向とは合わないのだが、暴力賛美のマッチョさに陥らない”硬派さ”があって面白く読めた。きっと作者のトンプソンは真面目な人なのではなかろうかと思う。
後書きによると作者のジェイムズ・トンプソンさんは2014年に逝去されたとのこと。この後の4作目は既に出版されているとのことなので恐らく邦訳もされるのではなかろうか。執筆中であったという5作目はひょっとしたら日の目を見る事は無いのかもしれない。外国人から見たフィンランドという視点はとても希有だったと思う。非常に残念です。

主人公カリ・ヴァーラが肉体的にも内面的にもどういう風に変遷していくのか、というところが非常に面白いので可能だったら1作目から読み進める事をお勧めする。

2015年1月17日土曜日

Warhound/Next level

アメリカのイリノイ州シカゴをホームタウンにするラップ/ハードコアバンドの2ndアルバム。
2014年にBDHW Recordsからリリース。
Warhoundは2009年に結成されたバンドで2012年には来日した事もあるそうな。2013年に1stアルバムをリリース。その後メンバー脱退も経て(多分5人から4人に。)発売されたのが今回のアルバム。
めっちゃ悪そうですが、オフィシャルFBによるとなんと左端の人は去年26歳になったんだって。私より全然若い。恐らく他のメンバーもそのくらいなのではかと。とても若いバンドなんですね。

結構前に悪そうなアルバムのティザーをみて気になってAmazonでCDをオーダーしたんだけどなかなか届かなくて、年も変わったしいよいよもうデジタルで買うわってなったところでCDが発送されたんすよね。

さて音の方はというとオフィシャルでもラップと歌っているけど、ラップらしいラップ成分はあまり無く、かなり凶悪なハードコアを演奏しています。来日経験を活かしてだと思うけど日本のハードコアバンドからゲストを迎えた曲もアリ。
レーベル名もそうですがジャンルとしてはビートダウン・ハードコア。
メタルコアなどで多用されるブレイクダウンとは違って、そもそもの速度が遅めでさらにここぞって時に速度が落ちるタイプ。
(ここで完全に蛇足なんですが、上で偉そうに言っていますが私ブレイクダウンとビートダウンの違いが全然分かっておらず、今回初めて明確な違いを知りました。過去の記事で両者がごっちゃになっていると思います。知ったかぶりで申し訳ない。定義はこちら様のブログ完全参照でございます。(勝手にリンクしてしまいましたが問題ございましたら連絡ください。))

完全にタテノリ重視のリフは這うように緩急を付けてうねるよう。迫力と厚みのある音の作りで輪郭はハードコアらしくはっきり。フィードバックノイズは非常に多めで、たまにハーモニクスの高音が飛び出す。
完全に低音にフォーカスされたベースはゴロゴロ唸っていて不穏。
ドラムはハードコア由来の乾いた中音だが、バスドラムだけでなくどの音もかなりの重量感のあるもの。こちらも曲調に合わせてどっしりしていて手数は多くなし。
ボーカルはかなり特徴的なわめきスタイルで、中音域なんだがかなりしゃがれた様な独特なもの。早口に数多くまくしたてる様は何とも気合いとヘイト感に満ちたもので、さすがバンドの顔。低音でドスの利いたボーカルもたびたび顔を出すので良いコントラスト。
先にも書いたがほぼラップらしいラップは無くてジャケット通り徹頭徹尾黒くて悪いハードコア地獄が続く。曲の長さはやはり短めなのでメタルっぽい博覧会めいた装飾性は無く、どれもストレートなもの。ビートダウンというとどうしても低速感が紅潮される言葉だが、実は土台となるビートがしっかりしていないとなわけだ。Warhoundはその点ビート感はばっちりで低速と相まって強烈に首どころか体が動きます。よくハードコアのライブでスキップするみたいなリズムでモッシュしている人がいるけど、なるほどああいう乗りで自然に体に馴染む。おもしろ〜。

という訳でこれは滅茶格好いい。悪いハードコアが聴きたい人はどぞ!
まだまだ若いってことで次回作も含めて今後の動向が楽しみです〜。

チャイナ・ミエヴィル/ペルディード・ストリート・ステーション

イギリスの作家によるSF/ファンタジー小説。
2000年に発表された。
がっしりとした体躯にピアス、さらにスキンヘッド。不敵な顔で写る写真は作家というよりはパンクロッカーの様なミエヴィルの出世作。この本で彼はアーサー・C・クラーク賞と英国幻想文学賞というSFと幻想文学の賞を同時に獲得し、その名を巷間に知らしめた。
私は短編集「ジェイクをさがして」を弐瓶勉さん風の表紙に惹かれてジャケ買い、それから「都市と都市」、「クラーケン」と楽しく読み、いよいよこの本を手に取った訳だ。

異世界バス=ラグの都市国家ニュー・クロブゾン。蒸気機関が発達した猥雑な町はフリークスと危険に満ちあふれている。そんな町で大学を追われた異端の人間の科学者アイザックは自身の「統一場理論」を追求する毎日を恋人の虫人リンとマイペースに暮らしていた。ある日珍しい鳥人ガルーダ種族のヤガレクがアイザックを訪れ、金塊を差し出しとある依頼をした。罪を犯して失った翼を科学の力で復活させてほしいと。魅力的な報酬もあり引き受ける事に鳴ったアイザック。この依頼が彼とヤガレク、そしてその周囲の人々、さらにはニュー・クロブゾン全体の運命に激震を与える事になるとは気づかずに…

「クラーケン」にはかなり独特の体系を持った魔術が登場するし、ミエヴィルはフィクションを書くのにSFでもファンタジーでもあたかも作品を構成する上でのアイテムとしてとても器用にかつ重厚に描く。
この作品でも電気の代わりに蒸気が発達したスチームパンクの世界に、まるで違和感なく魔法の概念を取り込んでユニークな世界を描いている。「都市と都市」なんかは特にそうだが、ミエヴィルは都市国家(街と言っても良いかも)、つまりかなりデカい生物(本作には人間以外の生物が出てくるので)の生活と意識の集合体(つまり生きた文化?)を書くのを心情としているのかもしれない。ただあくまでもその街に棲む住人の視点で描くので、文字通り読者は主人公に習って異形の都市を見上げるように読む事ができる。その異世界探訪感がミエヴィルの魅力の一つと言っても過言ではないのでは。
上下巻でそれぞれが560ページくらいある大作だが、特に序盤は読者を案内するかのようにアイザックにその都市を歩き回らせて都市の姿をあらわにする。
蒸気にけぶる巨大なニュー・クロブゾンは人間の他にもロシア方面の水妖ヴォジャノーイ(本邦に置けるカッパみたいなものだが皿は無い。)、エジプト神話のケプリ(人間の女性の体に頭部はスカラベ。)、インド神話の鳥人ガルーダ、次元を渡り歩く巨大な蜘蛛ウィーバー、集合と偶然によって機械のガラクタに宿った知性、地獄を拠点にする悪魔、さらにはグロテスクに蒸気機械と融合した人間のリメイド(罪に対する罰として、または嗜好としてリメイドされる/する人がいるようだ)などなどのフリークス達が跋扈する街である。
体制側の民兵は姿勢にまぎれ反体制の人間とあれば暴力的に排除する。殺人鬼が跋扈し無惨な死体が腐った川に浮く、怪しげなドラッグが蔓延し、ギャング達が果てない抗争を続ける。そんな危なくも、生活感の活気と熱気があふれた町がニュー・クロブゾンである。曲がりくねった路地のひとつひとつに物語が詰まってそうな街である。この設定だけでもう興奮してくるではないか。今回はそんな街に詰まった物語の一つ、科学者アイザックは自分が発端になり、人の精神を食らう最悪の生物スレイク・モスと対決する事になる。
倒すべき悪役の登場で物語をまとめつつ、ごった煮の世界観で巻き起こる胸くそ悪い出来事をビジュアル感にあふれた生々しい描写と主人公達登場人物の心の機微によって書き出す筆致は流石で、物語が走り始めると同時に吐き気を催す展開が矢継ぎ早に展開されていく。特に苦い苦いラストはレビューを読むとなかなか色々な意見があるようだ。

かなりヤバい状況なのに妙に活気がある未来的な世界観は少し椎名誠さんの小説ににたところがあるなと。ただしこちらの方が何倍も悪趣味で悪夢感が強いのだが。
日暮雅通さんの翻訳もばっちり。年の初めからすごいの読んでしまったな〜。劇的に面白かった。重厚な世界観に圧倒されたい人は是非どうぞ。オススメっす。

ひとつ疑問だったのがアイザックの体型で、あるところではデカいが引き締まったからだと書かれたり、あるところではデブと書かれたり、結局どっちだったんだろう?

2015年1月11日日曜日

Tetola93/Tetola93

日本の激情ハードコアバンドのディスコグラフィー盤。
2014年にMeatcube LabelとZegema Beach Recordsというレーベルから共同でリリースされた。
アナログレコードでリリースされてたのだが、結構売り切れ状態で(探せばまだあるんだろうけど)私はマテリアルを見つけられずiTunesで購入。(ジャケットが格好いいのでアナログ欲しいなあ。)
Tetola93は日本は栃木県、足利市で活動していたバンドで残念ながら2012年に解散してしまっている。本作は解散後にリリースが決まったというアツい由来のあるまさに決定的なディスコグラフィー盤のようです。
こちらも各所で2014年ベストに挙げられていたので購入。

(歌詞カードは無いし、兎に角速いんで恐らくですが)日本語詩で歌う激情系ハードコア(「改竄された習性」などの曲名を見れば彼らの音楽的な方向性の一端が伺えると思います。)なのだが、かなりねじれた音楽性を持っている。カオティックと形容するのがばっちり来る、恐ろしく速い演奏を比較的短い曲の中に神経症的に詰め込んだ音楽性。速いのだけれどグラインドやパワーバイオレンスとは明らかに一線を画した、あくまでももの凄く速い激情系ハードコア。
あまりの目まぐるしさにちょっと同じく日本のハードコアバンドPastafastaが思い浮かんだが、こっちはもっとシリアスで奇天烈なユーモア成分はほぼ皆無。(Pastafastaの音楽性も大好きですよ、念のため。)
ギターは乾いた音で重さはそこまである訳ではない音の作り方。完全ハードコアでそれを高速で弾き倒すもんだから劇的にカオティック。
ベースは下品なくらいガロガロいうスタイルで無慈悲。
ドラムは速い+シンバル叩きまくりで五月蝿い事この上無し。
ボーカルは激情系らしく、ぐわーっと感情を込めて叫ぶスタイルなんだけど、地声が甲高く独特の不安定さがあって情緒不安定感満載で感情込め込めすぎておっそろしい。美しいメロディもちょっとした危なさが生じていてとてもカッコいい。
激情系と言っても気持ち悪いSEを入れてくる大層こじれたスタイルで、真面目過ぎて考えすぎた結果若干狂気をはらんでしまった切れっぷりがこのバンドの持ち味かも。激烈な音楽性の中にも結構な振れ幅があって一筋縄でいかないあたりが面白く、かつ格好いい。
例えば9曲目とかは曲の速度も相まってかなりエモい雰囲気のあるストレートなハードコアをやっているんだけど、乾いたギターが他の楽器人が無い中でじゃらじゃら弾かれる様はもはやあざとい問いって良いくらいきゅんきゅん来るわ。これは卑怯。
13曲目はなんだか恐ろしいSEが全編引用されていてこれ絶対にどこかで聴いた事あるな、と思って調べてみたらスタローン主演の「ランボー」(1作目。私は1作目が一番すき。)のラストのスタローンの台詞でした。帰還兵の悲哀が詰まりに詰まったこの台詞を持ってくるあたり、青臭いかもしれないがなにかしらバンドの主張したい事がおぼろげながらも見える様な気がして胸熱。
激情系なんで青臭い感情を込めてくる音楽性なのだけど、その感情がもうぐるぐる回りすぎて怨念のようになっている。青臭い焦燥も含めて曲にしてみたら清濁合わせ飲んだ混沌ができました、というような。その混沌を飾らすにバンドアンサンブルを通して形にした曲、聴いているこちらも居住まいを正す様なそんな真剣さ、ヤバさの中にも作り手の真摯さが垣間見える至って真面目なアルバムだと思いました。

ということで解散が惜しまれるようなクオリティ。デジタルでもかえますし、気になった人は是非どうぞ。こちらもオススメですぜ。

The Donor/Agony

日本は石川県金沢の3人組ダークハードコアバンドの1stアルバム。
Sec Dimensionという解散してしまったバンドのメンバーの方々で結成されたとの事。2014年にTill Your Death RecordsとInclusive inc.から共同リリースされた。
色々な音楽好きの方の2014年のベストアルバムにたびたびランクインしていたこのアルバム。遅ればせながら手に取ってみた次第。

ジャケットの”黒”度合いを見ていただければ分かるが真っ黒い音である。
ハードコアを基盤にスラッジ、グラインドコアもろもろの激しいメタルを混ぜ込んでノイズをまき散らした様な激烈な音を鳴らすバンドである。昨今隆盛を見せているざらついた音を鳴らす真っ黒いクラストハードコアバンドに似通ったところがあると言えば、ある程度想像がつくのではなかろうか。すでに海外ツアーもこなしているらしく、海外の激音とがっぷりよっつで取っ組み合いのできる、素晴らしい音です。正直日本でこんな凶悪な音を鳴らすバンドがいるのか!と驚愕。
ギターの音は厚く粒子が粗いざらっとしたもので、そこに湿り気が加わったジャリジャリしたもので迫力のある音が中速くらいの低音リフに映える事。独自の粘り気見たいのがでてぐわーっと空間を黒く染めていくスタイル。たまに見せる高音のきゃらーんと弾くフレーズが良い好対照。
ベースは低くうねるスタイル。ゴロゴロ唸る様な不穏な音で耳に迫ってくる。スラッジーなパートでのぐーーんと伸びる様な弾き方がとにかく格好いい。
ドラムが乾いた中音と重苦しいバスドラが込み合った叩き方で重々しさとある種の軽快さ疾走感を演出してくる。
ボーカルは咆哮といった様相を呈するハードコアのもので、いい感じに掠れていてかつ太い厚みがあって雄々しい。
悪路を踏みしだきながら疾駆する戦車の様な迫力。曲の速さでは爆速って訳ではないのだろうが、体感速度は実際より速めに聴こえるからすごい不思議。そんな速度がどっしりとした重量感と相まって、結果体の中から何か厚いものがわーっとこみ上げてくる。ミュートを使った叩き付ける様なリフが重いドラムの一撃とシンクロして楽器全体でパーカッションの様な一体感を生じさせているパートがあるんだけどそれが個人的にはとてもツボ。(7曲目とかヤバいっす。)疾走の後の放心した様なスラッジパートも非常によかです。フィードバックノイズも多め。ビリビリした緊張感をはらんだシリアスな空気が一切減衰せずに録音された音から伝わってくる凄まじさ。
11曲目のように黒さの中にも暴力的な曲の中にも叙情性を混ぜ込んでくる新境地みたいな曲があって個人的にはすごい気に入りました。

つーわけで噂通りの激音でした。
ものスゲエ。まだ聴いていない人はむしろ幸せですよ。買って聴きましょう。
オススメっす〜。

2015年1月3日土曜日

Full of Hell-Merzbow/Full of Hell-Merzbow

アメリカはメリーランド州オーシャンシティを拠点とするハードコアバンドFull of Hellと日本のノイズ巨人Merzbowとのコラボアルバム。
2014年にProfound Lore Recordsからリリースされた。
私が持っているのは御馴染みDaymareからボーナストラック(ライブ音源)を追加して発売された日本版。

FoHの方は以前A389からリリースされた2ndを聞いたことがあり。Merzbowの方は実は私単独音源は持っていないはず。かろうじてBorisとのコラボ盤を買った事があるだけの様な気がします…
FoHは元々凶悪さを倍加させるために先鋭的なハードコア音にノイズを押っ被せるといううるせーこときわまりない音楽スタイルをやっており(ライブ中もわめく合間にボーカルがノイズを担当している模様。)、今回もFoH側からMerzbowにアプローチしたとの事。2枚組で1枚目がFoH主体、2枚目がMerzbow主体(と日本盤はライブ音源)となっている。

1枚目は曲も1分以下の曲が多くてあとはスラッジ成分ありの長い尺の曲という地獄構成。もともと極端に速く、極端に思い曲をやっているところにさらにノイズを追加しているので偉い事になっているのだが、ノイズ分がさらに喧しくなり味の濃すぎる内容に。耳の味覚障害を起こしている皆さん大歓喜。
2ndに比較するとデス声を思わせる低音咆哮が多めになっている様。わめき声とのコントラストが良い。結果的により残虐性は増している印象。
ギターとベースは壁の様な硬質かつ分厚い音なんだけど、ドラムはの手数の多い小刻み乱打が爽快感を引き受ける担当。
突っ走るにしてもスラッジやるにしてもハードコア由来の素直さが信条でグルーヴ感というよりは完全に勢い重視で倍速にされたタテノリを強いられるというまさに地獄由来の音楽。
2枚目はMerzbowが主役という事で曲の長さもぐぐっと増す。それでも一番長いのが13分。あとは平均すると多分5分くらいだろうからそこまで長くない。
あくまでもノイズ主役という事でボーカルとギター、ベースはほぼ引っ込み状態。(それぞれノイズは出しているかもなんだが私の耳だと区別がつかない。)ただドラムだけは息しているので、ハーシュノイズと言ってもビート感があって曲の長さも相まって意外に聴きやすい。(地獄には違いないが。)
ビートがあると縦横無尽なノイズもある程度のミニマルさ(曲によっては恐らくMerzbowもはっきり意識して反復的に作っていると思うんだが…)が産まれてくる様な…
ノイズの面白いところは連続性ではなかろうか。一つの音が1秒と持たずに柔軟に、それこそ水のように音をぐにゅ〜〜〜とかえていく。常に違うからその中から一音、と取り出す事ができない。だから分からなくても唐突さは無い。微妙に幅の違うざらついた音がゆっくり蠢きながら追加されたり、消えていったりと。

というわけで五月蝿い音楽が好きな人は是非どうぞ。
FoHファンならさらにブーストしたぜ!やったねということで普通に買いましょう。
個人的にはNailsもそうだけど、このくらいのスラッジとのバランス感覚は結構好きです。
(来年かと思ったら)今年の3月に来日してMerzbowと合体ライブをやるそうでよ。

上橋菜穂子/神の守り人

守り人シリーズ第5弾まで読み進めてきました。
2巻に分冊されていて上巻が「来訪編」、下巻が「帰還編」。

前回の事件で大けがを負った女用心棒バルサは病後のリハビリもかねて幼なじみの呪術師タンダに隣国ロタ王国国境近くの町の草市に出かける。そこで商人に連れられた兄妹を見かけたバルサは、商人が実は奴隷商人である事を見抜く。自分の過去を少女に重ねたバルサは兄妹から目が離せない。宿の彼らの部屋を訪ねると目に見えない何かに襲われるバルサ。奴隷商人は殺され、別の呪術師が兄妹の身柄を狙っているようだ。何か訳のあるのは間違いないが、バルサは兄妹を救う事を決意する。その選択が国家を揺るがす陰謀に繋がっている事も気づかずに。果たして兄妹の抱えている秘密とは何なのか…

という訳で今回の主人公はバルサに戻る。時系列で言えば前作の「虚空の旅人」のちょっと前からほぼ同時進行という感じになるかと。
女子供に弱いバルサはチャグムの時と似ていて訳ありの兄妹を守る事に。チャグムの場合は命を狙われていたが、今回は兄妹の少女の方がなにかとてつもない”力”を持っていてそれ故に命ではなく身柄を狙われる事になる。いわば争奪戦。
右も左も分からない子供なのを良い事に、その大きな力を自分のために使っちゃおうという大人達が露骨に汚い感じ。人の手に余る力というと核兵器が思い浮かぶ。国家間の政治の切り札にもなりますよね。今回はその核兵器が擬人化されたのが少女という事なのかも。一体どうするのが彼女のためになるのだろうと直感的に手を差し伸べたものの逡巡するバルサ。ヤバげな力関係一切無視して少女の幸せを願うあたりぶれなくて格好いい。

前作あたりから話のスケールがアップしている感じがあるけど、作者はマクロな物語をあくまでもミクロ(個人)の視点で書くのが上手い。出来事一つ一つを大雑把にではなく、個人の体験で書く事で感情移入度がぐーん増す。面白いのは今回の悪役、どう考えても頭良い系クズでいや〜な奴(大抵悪役が良い感じに嫌な奴だと物語は面白くなります。)なんだけど、なんかこいつはこいつですごいかもーと思わせてしまうところ。人は多かれ少なかれ人を利用して生きていく訳だから、一体どこからどこまでが許されるのだろうと思わせる作り。恐らくわざと正義という言葉を明示していないところにもなんとなく意図的な配慮が伺える気が。

というわけで安定の面白さですかね。
徐々に周辺の平和にかげりが見えてくるきな臭さが高まっている気がして次巻以降にも期待大。ふと思ったけど見方は結構固まっている話なので物語の面白さが結構敵次第で感じになって来ているのかな?まあ今のところ敵役の魅力は十分なので特に問題無しですが。
という訳で気になった人はシリーズ1冊目からどうぞ。