2016年12月31日土曜日

Ruinous/Graves of Ceaseless Death

アメリカはニュージャージー州のデスメタルバンドの1stアルバム。
2016年にDark Descents Recordsからリリースされた。
比較的新しいバンドだが3人組でボーカルも務めるギタリストが元Funebrarum、もう一人のギタリストがImmolation(このバンドは聴いたことがない)、ドラマー(調べたらまだ31歳だとか)が元Disma。共通して過去Funebrarumで活動したことがあるようだ。(Metallumより。)私はFunebrarumの「Sleep of Morbid Deams」が結構お気に入りなので買って見た。知るきっかけはみちのくさんの年間ベストで。

まず1曲めのイントロのギターのフレーズからしてFunebrarum感満載で楽しくなってくる。ベースレスの3人組としてはちょっと考えられないくらい音の密度が濃いバンドで(ただしベースは録音していると思う。徹底的にダウンチューニングしたギターかもだが。)、漆黒のオールドスクールなデスメタルを演奏している。がっつり金属的なバキバキメタリックサウンドでうねうね動くような気持ちの悪い定温リフをこれでもかというくらい詰め込んでいる。弾き方としてはそこまでではないけどPortalのようなリフの気持ち悪さ。ギターソロは短めなものがかなりテクニカルに鳴らされるが、かろうじて暗黒の霧を払うよすがにはならない程度。ブリッジミュートの使用頻度がそこまで高くないのでスラッシュ的な爽快感はほぼ皆無で、溜めがあって乗りやすいわけでもなく、さらにBPMはそこまで速くないので正直聴きやすいバンドではないかもしれない。
ボーカルはギャウギャウ喚き声と地に這う低音を使い分けるタイプでこれもFunebrarumを感じさせるもの。ドラムは突っ走るにしてもバタバタ位だけどやはりテクニカルで手数が多く、瞬間的に破裂するようなスネアの連打が印象的。
やはりFunebrarumの系譜を感じさせ、ドゥーミィな要素も非常に色濃く、悪夢的にねっとりと蠢いていく楽曲はコズミック・ホラー的な気持ちの悪さ。沈み込む低音の波濤に思い出したように細かく動く触腕的な高音ギターリフを重ねてくるパートが個人的にはお気に入り。
密室感というか真綿で首を絞められているような閉塞感が売りのバンドで曲の密度も濃い。金属質で確実に肉体を伴ったような攻撃的なサウンドなのだが、それを外に放出するというよりはうちにうちに落ち込んでいくような負の螺旋サウンド。それこそ悪夢に囚われたような感覚に浸ることができる。好きな人にはたまらないやつ。

デスメタルに一種の爽快感を求める人にはなかなか難しいかもしれないが、ひねくれた気持ちの悪さに居心地の良さを感じてしまうような人にはバッチリはまるのではなかろうか。Funebrarum好きな人は是非どうぞ。

Martyrdöd/List

スウェーデンはヴェストラ・イェータランド県ヨーテボリのクラストパンクバンドの6thアルバム。
2016年にSouthern Lord Recordsからリリースされた。
Martyrdödは2001年に結成されたバンドでメンバーチェンジを経て今までに5枚のアルバムをリリースしてきてた。今は4人体制とのこと。私はTwitterで今回の新作のリリースの盛り上がりで初めて知ったので過去作を聞いたことはない。どうも日本の特定の人たちの間ではかなり有名なバンドのようだ。

いわゆる”ブラッケンド”という形容詞がつくクラストパンク/ハードコアバンドで、アングラ界隈で昨今隆盛を見せるジャンルの一つ。6枚のフルアルバムをリリースしているから先行者ということにはなるのかもしれない。
全部で10曲が36分、平均3分台なのでハードコアにしても速さを売りにしているバンドでないことがわかる。じっくり聴かせる、というと語弊があるかもしれないがとにかく叙情的なバンド。別にボーカルがしっとり歌い上げるわけではない。つまりクリーンボーカルは皆無で、どうしようもないクラストボーカルが綺麗とはお世辞にも言えないしゃがれたダミ声で、メロディ性のあまり感じられないシャウトをかましていく。じゃあ何が叙情的なのかというとギターがひたすらメロい。メロすぎるほどにメロい。ほぼほぼ途切れなく弾きまくっていくハードコア/ブラックメタルスタイルで、音が非常にクリアかつきれいに仕上げられており、高音でキラキラ装飾されたトレモロリフが極めて滑らかに(ここ結構大切)メロディ成分を曲にバンバン追加していく。どうしても「俺らハードコアだからさ…」となりがちな男の虚栄心(テキトー言ってますよ)がサウンドの一片一片までも小汚くしようとしてしまい、それすらも男らしさの象徴として賞賛されがちなこの界隈で、ここまで思い切ってハードコアにあってはいけない”綺麗”さをしれっと表現仕切ってしまうとは、まさにその姿勢がハードコアスピリッツに溢れているのかもしれない。ギターソロもかなり泣いてきてその思い切りの良さはもう凄まじいものがある。
こうなってしまうともう何かによって心が洗われてしまったブラックゲイズのようなサウンドになるんでないの?って気もするがこのバンドはそれでもどっからどう見てもハードコアだ、と思わせるからさらにすごい。なぜかというとギター以外は余り美麗な方向に引っ張られていない。前述のボーカルはそうだし、また特にドラムとベースが担当するビートの部分は明確にハードコアだ。重たいドラムを回すようにロールさせたり、ズタタズタタと重さとリズムの小気味好い気持ち良さを併せ持ったD-ビートを明確に曲の根幹に据えているので「俺たちハードコアです」と問答無用にぶっといビートで持って聞き手の顔面に叩きつけてくる。
音楽で何かの要素をブレンドするときどうしても両者を程よく接近させる手法が一番手っ取り早いのだろうが、このバンドに関してはハードコアはハードコア!、ブラッケンドはブラッケンド(つまりギター)!と明確に線を引いてそれをハードコアという土台の中で両立させているからすごい。溢れんばかりの叙情性というとTotem Skinに似ているが、激情っぽいTotem Skinに比べてこちらは明確にクラストという感じなので似ているところもあれば違うところもある。

賛否両論の新作ということだが、私は前述の通りこの作品で初めてこのバンドに触れたので素直にいいな〜と思ってしまった。実のところ過去作を聞いた上で今作に否定的な意見こそ聴きたいなと思ったしまったりもする。
叙情的なハードコアなんて手垢のついた表現かもしれないがいつの時代も言葉で説明仕切ることができない音楽をやっている人たちがいるものだ。ぜひどうぞ。非常にかっこいいおすすめ盤です。

SITHTER/CHAOTIC FIEND

日本は東京、東高円寺のデスソニックノイズスラッジバンドの2ndアルバム。
2016年に梵天レコードからリリースされた。
裏ジャケット(とおまけに着いているステッカー)がBlack SabbathのVol.4を彷彿とさせるものだったり、「混沌の悪鬼」という邦題(もちろん日本のバンドなのだが)、ドクロやぐるぐる模様、キノコをモチーフにあしらったアートワークも往年の(具体的には60年代なのか70年代なのか恥ずかしながらわからない)サイケデリックかつオカルティックな芸術へのリスペクトをとこだわりを感じさせるし、見た目からも音楽性がある程度想像できる。
現在は4人体制で2006年に前身のPSYCHOTOBLACKというバンドが改名する形で結成された。(この手のバンドにすると珍しくオフィシャルに結構きっちりしたバイオが書いてある。)ライナーノーツによるとバンド名の元ネタは最近番外編が公開されたスター・ウォーズの敵陣営、シス(ら)のマスターということ。シスマスターでシスター。

音の方はというと本人らも公言している通りNOLA(ニューオリンズ・ルイジアナ)シーン、そしてスラッジの大御所Eyehategodの影響下にある音を演奏している。
時代を経るとともに残虐化、轟音化しがちなメタル/ハードコアシーン(批判しているわけではないです)では結構珍しいかもしれないくらい、伝統に敬意を払ったオールドスクールな音楽を演奏している。悪い知らせを報道するニュースをカットアップしたような不吉なSEで幕を開け、耳障りなフィードバックノイズが垂れ流されれば否応無くテンションが上がってくるというもの。そして「泥濘」とも称されるスラッジサウンドが期待を裏切らずに飛び出してくる。腰にくる、うねりとコシの強いグルーヴィなリフはビンテージでサザンなテイストに溢れており、陰惨なアトモスフィアを瘴気のように撒き散らしながらも粘りの強いズンズンくるリズム(何と言ってもタメのあるリズム感が秀逸で”ズンズン”と言っても近年クラブで鳴りがちな明快なものとは明らかに一線を画す)で持って高揚感を煽ってくる。重さのための重さ、遅さのための遅さを追求する強さ自慢ではなくて気持ちの良いスピードと重量感がこれだ、という曲至上主義なのもオールドスクールならではのこだわりを感じる。重たい曲が一気にスピードを上げていくのも必殺技めいていて素晴らしい。
また何と言ってもEyehategodのMike Williamsを感じさせる世捨て人ボーカルがかっこいい。日本人ではちょっと類を見ないくらいの堂の入りようで、しゃがれて苦しげに吐き出すようなボーカルはおどろおどろしいスラッジサウンドによく合う。
このままだと和製Eyehategod、という感じの説明になってしまう。私はこの「和製」って形容詞が好きじゃないし、何よりSITHTERは単なるEyehategodのコピーバンドではない、もちろん。どこかEyehategodと異なるのかというと、これはタイトルにもなっている「Chaotic」=混沌に他ならない。カオティックハードコアとは全然異なるが、かなりワウを多用したギターリフは(アルコールや違法薬物の支配下にあるとしても)比較的ソリッドなイメージのあるスラッジというよりは例えばEarthlessのような空間的に広がりのあるサイケサウンドに似たところを感じる。より眩惑的だ。ラストを飾る大曲(16分ある)は特にそんなSITHTERのサイケデリアを存分に感じることができる。地獄のちょうど中間に配置された「Lost Flowers」でもせん妄状態で見る古き良き思い出めいたノスタルジアをノイズの中爪弾かれるギターサウンドに感じることができる。ピアノを用いた「Engrave The Misery」も伝統的なスラッジサウンドからすると異色かもしれない。いずれも頭でっかちに、過分にアート的にならない、持ち味である陰惨さを損なわない比重の登場頻度なのが良い。

懐古主義というか原理至上主義ではないのでモダンになっていくジャンルの中で伝統を維持しつつあるバンドというのが無条件で良いわけではないと思うけど、純粋に伝統に則った方法でかっこいい音楽をやられると「まだまだやりようがあるんだぜ」と言われているみたいで痛快であると思う。
EyehategodやBuzzov.enが好きなコアなスラッジャー(スラッジスト?)はもちろん、サイケな音楽が好きな人もハマると思う。

2016年12月25日日曜日

椎名誠/埠頭三角暗闇市場

作家の椎名誠さんのSF長編小説。
椎名誠さんのSFはとにかく大好きなので迷わず購入。
表紙は吠える犬で「チベットのラッパ犬」もそうだったが、椎名さんは犬が好きなのかも入れない。この小説でも犬が重要なキャラクターで出てくる。思うに野犬というのは椎名さんがよくいく辺境と呼ばれる地域にはたくさんいて(日本では野良猫はいるけど野犬はもう見なくなりましたね、私は一回子供の時に見たギリです。)、そして彼らが自由にたくましく生きているからだろうか、なんて思ったりする。

未来の日本はのちに「大破壊(ハルマゲドン)」というテロとそれによる破壊により壊滅的なダメージを負い、中国の属国になっていた。それでもまあ日常というのは存在するもので、舞台になるのは東京湾に面するとある埠頭。ここでは「大破壊」で傾いた高層ビルと埠頭に打ち上げられた客船が斜めに寄り添い、巨大な三角を形成していた。その三角の下の薄闇にはなんでも揃う危険な闇市が展開されていた。そこで北山は暗闇市場の倒壊しかけたビルで人と獣の魂を分離合成するモグリの医師をやっている。ある日やはり訳ありのヤクザと思わしき集団が北山の部屋に訪れる。

椎名誠さんのいわゆる一連の「北政府」ものとは別の世界軸で展開されるのが今回のSF。色々な意味で前述のそれらに比べて読みやすい作りになっている。
一つは舞台が日本の東京とその周辺であること。そして割と近しい未来であること。もちろん主人公の一人北山が扱う人獣合魂エンジンなんて技術は現在存在しないし、ありと高度なアンドロイド達も出てくるが、あとは携帯電話の進化版だったり、移動は車やバイクを使ったりとあまり現代から隔たりがない。(ただし一風変わったガジェットや施設(個人的には秘密裏に密会できる立体駐車場なんてのは非常に面白かった)は出てくる。)登場人物達も魂が入れ替わっている人と、ミュータントの走りみたいな人が出てくる以外には人体改造至上主義者は出てこない。作者の小説の醍醐味のよくわからないがワクワクさせる語感の得体の知れない(どう猛な)植物・動物達も数は絞れられている。(ただし結構な重要や役柄で出てきたりする。)
もう一つは一つの世界を舞台にした連作小説ではなく、一つの筋が通った物語が展開されているので、視点が固定されて読みやすいと思う。(私は連作小説でも読みにくいと思ったことはないのだが、一般的に。)割と野放図に始まった物語が結構な中盤まで行き当たりばったりでどこに向かうか登場人物と同様に首を傾げていると、終盤に入ると次第にカオスに一つの軸が浮かび上がってくる。そのままラストになだれ込む様は椎名SFでは珍しいかも知れない。エンタメ的なカタルシスがあって非常に良い。
それでは持ち味が薄くなった作品になってしまっているかというとそんなことはなく、持ち味である危険な状況で遺憾無く発揮される人間と(特に)動物のたくましさがのほほんとした筆致で書かれている。善悪をはっきり超越した生命力に顔を思わずしかめてしまう場面もあるが(主人公の一人である(暫定)警察機構に勤務する古島は結構なクズ人間)、現代社会にはない(がきっとその背後で世の中を動かしている)法則に圧倒され、時に魅せられる。人間なんて暴力で一皮剥けばこんなもんなんだよ!という暗く諦めたような感情で書かれているのではなくて、どちらかというと人間結構どんな環境でもそれなりに楽しく生きられるもんだよ〜って感じで書かれている気がする。殺伐としているけど笑いもあれば、憩いもある。こうやって物語を書ける人は他に知らない。

大きく大きく(もしくは小さく小さく)、時には肉体を超越して拡散・広がっていく最先端のSFとは明らかに一線を画す野蛮な世界。椎名誠さんの描くSFの魅力がぎゅっと詰まっている。個人的には荒廃仕切って諦めが支配する退廃に一条の光を投げかけるのが”これ”かも知れない、というラストは非常に面白かったし痛快だった。面白かった。おすすめ。椎名誠さんのSFはどれから読んだらいいのか、という人はまず手にとっても良いかも。

2016年12月24日土曜日

Haymaker/Taxed...Tracked...Inoculated...Enslaved

カナダはオンタリオ州ハミルトンのハードコアバンドの2ndアルバム。
2016年にA389 Recordingsからリリースされた。
Haymakerは強烈な一撃という意味でLeft For Dead、Chokeholdなどのハードコアバンドの元メンバーにより結成された。1stアルバムは2001年にリリースだからどうもこのアルバムがリリースされる間に休止の期間があったようだ。
FBによると5人組で彼らのライブは喧嘩とそれによる怪我が元に強制的に終わってしまうのが普通だとか。おっかない。
このバンドもみちのくさんの年間ベストから。

全部で20曲で19分弱だから1曲1分ないことになる。パワーバイオレンスというよりはひたすら早いハードコアという感じ。今風のブレイクパートはほぼなし。常に突っ走る激走スタイルでここら辺はメンバーがかつてやっていたLeft For Deadに通じるところがある。(私はLFDは大好きなんだ。)
ボーカルが結構特徴的でハードコアでは珍しくないのかもしれないが、ハリがありつつも甲高いおっさんボーカルで男臭い咆哮と、曲の速度に合わせて早口でまくしたてるような歌唱法が声質と相まってかなり独特で初めは戸惑うものの異常な中毒性がある。
ザリザリとささくれて荒っぽい音質はハードコア然としているが同じく今年新作をリリースしたSex Prisonerに比較するともっと音がクリアに録音されている。またノイジーで奔放な高音で構成されたフレーズを重たいリフに重ねてくるので部分的に見ればかなりメタリックで、時にメロディアスだ。一見とっつきにくいが、ひたすらシンプルな曲がキャッチーなリフで明快に進行するために実は結構聴きやすい。暴力的なサウンドだが内省さはほぼ皆無でひたすら前に前に、外に外に押し出していく。行動原理は怒りで「課税され、追いかけられ、植え付けられ、奴隷にされる」というアルバムのタイトルにもそこらへんの感情が見て取れる。
まさにレイジング・ハードコアという感じで聴いていると否応無しに高揚してくる。よく考えればシンプルかつキャッチーなリフでを反復し、その上に詳しくはわからないが(英語わからないし、歌詞カードが手元にないので)なんとなく怒っているなーという感じの演説(歌)が乗っかるわけでこれは結構構成的なアジテートだ。マニアックなメタルと違って聴いたら誰でも楽しめる(まあ実際には好きな人しか聞かないだろうけど…)全方位的なのがハードコアって感じでカッコ良い。

こりゃかっこいいわ。Left For Dead好きな人は是非どうぞ。おすすめっす。

Sex Prisoner/Tannhäuser Gate

アメリカはアリゾナ州ツーソンのハードコアバンドの1stアルバム。
2016年にDeep Six Recordsからリリースされた。
あまり情報がネットにないバンド(こういったところからもバンドの姿勢がなんとなーく伺える。FBの影響を受けたものにはビールの銘柄を挙げている。)で4人組で、最初の音源は2010年にリリースされている。惜しくもこの間解散したAntichrist Demoncoreと(Magnumforceというバンド含めた3バンドによる)スプリットもリリースしている。満を辞してということでリリースされたのがこのアルバムなのかも。私は全く知らなかったがみちのくさんの年間ベストに入っていたのをきっかけに購入。

「Tannhäuser Gate」ってなんだっけ?「ハルシオンランチ」?と思って調べたらどうも元ネタは映画「ブレードランナー」みたいだ。とはいっても音の方はSF感は全くないパワーバイオレンス。全部で16曲、トータルタイムは23分弱。平均1曲あたり1分ちょい。
ざらついたロウな音、つまり生々しく、そして低音が強調された音で例えば前述のACxDCなんかに比べるともっともこっとしてざらついている。メタリックさはあまり感じられず、ギターソロなんかもなし。
パワーバイオレンスらしいスットプアンドゴーはあるものの、わかりやすいブレイクというよりは真綿で締めるようなビートダウンがえげつない。ファストな時はファストだが、忙しないというよりはどっしり構えていて(ブラストというよりはズタズタ刻むのが主体のドラムはかなりハードコアな感じ。)音の少ないパートは鈍器で後頭部を強烈に打ち付けれているように頭が触れる気持ちの良さ。速度のコントロールが上手いのと溢れ出るブルータリティをタメのあるリフに打ち込んでいるので結果手に非常に踊れる(=モッシュできる)おっかない音楽になっている。
ボーカルはやはりハードコアらしい、野太いマッチョなもの。エネルギッシュで悪い感じ。思ったのだがこういったボーカルの金切り声みたいな歌い方は結構つぼだ。やや声の質が違うバッキングボーカルも良い。
全編にわたって飾らない粗野なハードコアかと思いきや、中盤やや長い尺の2曲(といっても2分半もないんだけど)が結構異色。1曲はフィードバックノイズとブレイクを合わせたハードコア新機軸で、もう一方はアコギのインストからややブラッケンドなリフとモッシュパートを合体させたみたいなメタリックな曲でどちらもめちゃかっこいい。

今かっこいいという現行のブルータルなパワーバイオレンスを聞きたい人は是非どうぞ。

裸絵札/Selfish

日本は大阪のヒップホップユニットの4thアルバム。
2016年に至福千年音盤からリリースされた。
裸絵札は2005年に結成されたグループで長らくラッパーとトラックメイカー/DJの二人で活動していたが、3rdアルバムリリース「孕」を2012年にリリースしたのちギタリストが加入して3人組になっている、はず。ちなみにグループ名は「はだかえふだ」と読む。

自分は「孕」を持っているが、ヒップホップというジャンルでくくっていいのかわからない面白い音楽性をやっていて結構好きだ。「dance noiz vandalism」を標榜する彼らはクラブシーンだけでなくハードコアシーンとも接近しているように、その音楽と活動は垣根なしに幅広い。
「ノイズ」とあるくらいでヒップホップというにはまずトラックが非常にうるさい。サンプリングもしているのかもしれないが、結構一から組み立てているのではなかろうか。ジャズネタをループなんて伝統は糞食らえとばかりにノイジーで攻撃的な電子音でトラックが構成されている。バキバキに武装されたビートはブレイクビーツ生まれのブレイクコアを経由した(アーメンビートも飛び出してくる)ぶっといものでヒップホップにしては圧倒的に手数も多い。そこにノイズ成分多めの上物が乗っかる。ぶった切ったピアノのサンプリングを用いるのは前作からの流れだがおしゃれさは皆無でむしろ不穏。メタリックなギターが入ることでミクスチャー感も増しているが、ロックかというとちょっと難しい。実はヒップホップでもロックでもなくてインダストリアルなダンスサウンドというのが裸絵札の音を形容する上ではしっくりくる気がする。前作でも薄々感じていたがトラックが間違いなくかっこいい。完全にアングラ思考の音だが、暗闇でギラギラ光る蛍光色のような陽性の響があって、ヒップホップとロックを飲み込みつつも非常に”踊れる”音に仕上がっている。手数が強調されたビートは原始的な響きで持って気分を盛り上げてくるし、これもヒップホップの伝統では珍しいメロディアスさが程よい塩梅(インストトラックだとここが前面に押し出されてかっこいい)でまぶされている。ミニマルというよりは縦横無尽に展開するのも個人的には非常に良い。
そこにラップが乗っかるわけだが、このラップも伝統を意に介さない型破りのものでヤンキー的なオラついた感じに下品なリリックを乗せるえげつのないものでうるさいトラックに全く引けを取らない。生々しいセックスネタをややニヒルに吐き出していくのだが、あまりに具体的なので得体のしてないどっぷり感がある。(前作「孕」もそうだったが割と赤裸々な性がテーマのグループなのかもしれない。)リリックはセックスまみれだがトラックは無慈悲なマシーンって感じなので聴きやすいのも非常に良いと思う。トラックまでエロくされたら正直ちょっときついかもしれない。

ギラギラ派手で下品というと「The大阪」(大阪の人は皆下品ってわけじゃなくて上品ぶらない、くらいの意味でお願いします。)という感じでかっこいい。Vampilliaも大阪だが、きっちりしている印象の東京と違ってとにかくあふれるエネルギーを型破りなやり方でぶちまける、みたいなのがあって非常にワクワクする。
個人的にはトラックのかっこよさがもろに出るインスト曲も多めで大満足な内容。

2016年12月18日日曜日

Jeff Rosenstock/Worry.

アメリカはニューヨーク州ロングアイランドのインディーロックミュージシャンの5thアルバム。
2016年にSideOneDummy Recordsからリリースされた。
Jeff RosenstockはもともとスカパンクバンドThe Arrogant Sons of Bitchesを始めいくつかのバンドで活動するミュージシャンだったが2012年ごろからソロでも活動を始めている。多作な人でソロになってからはなんと毎年1枚のペースでリリースしている。
私はもちろんこの人のことは全く知らなかったのだが、ぺちゃさんが下半期ベストの1位に上げていて私は人の年間ベストを見るのが好きなのでウヒョーとばかりに飛びついたのがこのアルバム。(ぺちゃさんのベストからこのアルバム以外にもいくつか買って聴いている。ありがとうございます。)

ジャンルとしてはパンキッシュなインディーロックで良いのだろうか。だがとにかく勢いがあり(17曲で37分だから平均すると1曲2分ほど)、曲にもバリエーションがある。これだけだとまあ多彩な人なのかなというくらいなのだろうが、どの曲もポップでキャッチーというぶっとい軸で貫かれているためにこれが本当に気持ちの良いロックアルバムになっている。
スカパンクバンドという出自を生かして、ホーンを取り入れたり、ハードコアだったり、メロコアだったり、またアコギを取り入れたフォーク/カントリーだったりと、多様かつどれもしっかりものにしている。共通しているのはベースの強さであり、どの曲でもベースがうねりのある非常に腰の強いプレイを披露しており、勢いがありつつも安定したドラムとともにしっかり曲の背骨となっている。インディーロックというとどうしても文系めいた小難しさやアート性が含まれる(これが大きい魅力の一つになっている)ことも多々あるんだけど、Jeff Rosenstockに関しては「細けえことはいいんだよ!」というべらんめえ口調の江戸っ子顔負けの聴いたら踊りたくなるような本能に訴えかける動物的なロック、つまり一流のロックを演奏している。何と言っても声が良くてハリのある中音で温かみがある。たまたま友達に誘われていった飲み会で全然知らないやつだったけど、酔っぱらうと気が合う。どうも吹いているような気もするけどなんか妙に説得力と愛嬌があって胡散臭くも憎めない友達の友達、みたいな感じ。非常にあっけらかんとしていて外向的、ちょっと戸惑ってしまうんだけど声に感情がこもっているから嘘くさくない。非常にのびのび歌って気持ち良い。本人も別に顔がかっこいいわけでもスタイルがいいわけでもない、30代の男って感じでそこもまた良いのかもしれない。
何と言っても一番の魅力はバリエーションのある楽曲全部に普遍的にあるポップセンス。非常にメロディアスでめまぐるしい37分が過ぎた後、どの曲だかわからないけどなんか口ずさんでいる、そんな感じ。生活感があるというか多分楽しかったり、悲しかったり、普通の生活が想像できる、そんな雰囲気がある。つまり楽しい中にもちょっと哀愁のあるメロディがあってそれが楽しい気持ちの後にジンワリ胸に広がってくる。たまらん。決して大言壮語や自分と縁のない世界の物語ではないんだよな、と感じてしまう。

微妙に偏った音楽ばかり紹介しているブログだけど久しぶりに誰にでもお勧めできる素晴らしいアルバム。音楽好きだって人は是非どうぞ。またメロコア世代、パンクを通った人なら結構このメロディセンスはバッチリ刺さるのではなかろうか。非常にお勧め。是非どうぞ。

2016年12月17日土曜日

マイケル・バー=ゾウハー/復讐者たち

イスラエルの作家によるノンフィクション。
作者のマイケル・バー=ゾウハーは政府の報道官だったり、兵士だったりと多彩な経歴を持つ人で、作家としてはスパイ小説も書くがノンフィクション作家としても活躍している。この本はそんな中の一冊。1967年に書かれた本で、日本では1989年に発売されている。絶版になっていたがハヤカワ文庫の補完計画の一冊として去年復刊した。この補完計画も気づけば何冊か読んでますね。

原題は「The Avengers」、「復讐者たち」はストレートな訳。何に対する復讐かというと、ナチスに迫害を受けたユダヤ人たちの、である。「復讐とは甘美な感情である」というのは沙村広明さんの「おひっこし」だったか、軽い気持ちで読んだらこれがなかなか感想を書くのが難しい本だった。
元々私はナチスのユダヤ人絶滅計画に関してはほとんど無知であって、一番有名な「夜と霧」も読んだことがない。ただ例外的にプリーモ・レヴィの「これが人間か」を読んでヤバいくらいのショックを受けたことがある。これは強制収容所に入れられた作者の実体験をもとにした壮絶なノンフィクションで、入ったら最後99%死ぬという絶滅収容所の実態とそこでの収監者たちの暮らしが書かれている。
この本は戦後直前から戦後今に至るまでの、いわば絶滅収容所の後にナチスに報復すべく立ち上がった人々についてを描いている。いわばやられる一方だったユダヤ人たちが弱腰の連合側の手緩い対応に業を煮やし、時には非合法な手段をもとり攻勢に出た姿を描いている。そういった意味でも「これが人間か」に比べると動きのあって、なんならスカッとする内容に違いないくらいの野次馬根性で手を出したわけだがこれがなんとも裏切られることになった。
以下に書くのは(あたりまえだが)私の個人的な感想であることを改めて断っておく。
一つは何と言ってもナチスの残虐さ、その酸鼻を極める所業にはまずもって気分が悪くなる。当然殺されそうになった、または家族を殺された、友人を恋人を殺されたユダヤ人たちは復讐に燃え、実際に雪辱を晴らすわけなんだけどこれがすっとすることがほとんどなかった。前述の通り満足な国際的な支援が受けられなかったから私的な制裁を加えていくのだけど、これは私には気持ちの良いものではなかった。
一体日本人というのは昔から復讐が大好きで、武士の時代には仇討ちが合法どころか立派な行為でもあった。私も復讐は好きだが個人的にはっきり私的な制裁には反対である。理由としては人はおおよそ間違うものだからだ。ただし法的機関が常に個人に対して万能であるから時にやむ得ない場合というのもあるのかもしれない。そういった時は誰かが復讐するのは止める気はないが、復讐を果たした後その人ははっきりと社会的な制裁を受けるべきだ。そもそも社会的な制裁が期待できないから私刑に走るわけで、そんな事情もわかるのだけど、みんながみんな私的な制裁に走ったら社会はどうなる?私は個人を説得するために社会を持ち出す卑怯な大人になってしまった。しかしやはりここは譲れないところでもある。人間は間違うし、碌でもない奴はいるものだ。そんなやつら(もいるのに)に私的な制裁を与えることを許してしまうことはできないと思う。
もちろん私は三食昼寝付きで安穏と暮らしている。自分が殺されかけたこともなければ、親しい人たちを理不尽に奪われたこともない。人種的に絶滅の危機に瀕したユダヤの方々の気持ちは根本的に理解できていないからこういうことが言えるのだと思う。私も同じ立場にあったら復讐しないにしても復讐しようという同胞がいたら応援するに決まっている。ただ私は部外者で、やはりそういった行為を読んでみても素直に応援する、という気持ちにはなれなかったのだ。
また作者の書き方もこれはどうしても仕方ないのだけど、復讐者たちは普通の人間であることが強調されていて、それどころか優しく穏やかで復讐したことで殺人を犯した過去を悔やんでいる(ただ後悔はしていない)と一様に表現されている。いわば皆完璧な人間で全ての復讐はクリーンかつ正当なものだった、正義だった、と書かれているわけであって、これにはうーむ、と感じてしまう。完璧に優しい人間がイギリス軍人に化けて、ナチスの高官の家を強襲、拉致した上で罪状を読み上げて殺すのだ。何かがおかしい。無論このおかしさが、ナチスによって歪められたユダヤの方々の苦しみの歴史の証左に他ならないわけだけだ。今更話し合いで解決できるわけはもちろんないだろうが、全ての復讐はクリーンだったのだろうか。それはクリーンで素晴らしかったと日本人の私がいっていいものだろうか?
私はナチスの戦犯を許せといっているのではない。彼らに対しては罰がふさわしい。それは極刑かもしれない。「これが人間か」にはユダヤ人たちが出てきた。絶滅収容所で生き残ろうと足掻く人間たちだ。彼らは善人だったのだろうが、収容所という環境がそれを許さなかった。生き残るというのはたくましくなければいけなかった。時には囚人同士で騙し合うこともあった。それがその地獄のような環境が戦争という忌むべき異常状態を端的に表現できていた。「復讐たち」ではそんな収容所に入れられた人の恨みを入れられなかった人が晴らすわけだけど、復讐者たちのやったことが全部正義だったのだろうか。

なんともモヤモヤした気分を抱えてしまう本だった。つまらないというのではもちろんなかったのだが、なんともすっきりしたとは言い難い。それが戦争の辛さなのかもしれないが、それなら「これが人間か」の方が痛烈にそれを感じることができた。
難しい本だと思うし、いろんな人に読んでもらって感想を聞きたいと思っている。

ロード・ダンセイニ/二壜の調味料

イギリスアイルランドの作家による短編集。
作者ロード・ダンセイニは本名エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケットといい、アイルランドはダブリン州にあるダンセイニ城に居を構える正真正銘の貴族である。軍人、チェスの名手でもあったが、中でもその創作群で有名。異界の神々の生態(?)を描いた「ペガーナの神々」を初めとするファンタジー作品は後世に大きく影響を与え、中でもしょっちゅう引き合いに出されるのが現代も生き続け多くの作品に影響を与えながら拡張し続ける架空の神話体系「クトゥルフ神話」の礎を築き上げた不遇の作家ハワード・フィリップス・ラブクラフトだろう。コズミック・ホラーで有名なラブクラフトだがダンセイニに色濃く影響を受けたアンビエントなファンタジー短編もいくつか書いている。(そしてどれも絶妙に素晴らしい!)またテレビにもよく出てくる書籍蒐集家で作家でもある荒俣宏さんもダンセイニに影響を受けてペンネームをもじった団精二(だんせいじ)としたくらい。
私も何年か前にファンタジー作品は貪る様にして読んだのだが、ミステリー作品に関してはほぼスルーしていたので、この度ハヤカワ文庫からまとめられた本が出るということで飛びついたわけだ。

400ページ超に26の短編が収められている。どれも短め。
ミステリーだから「誰が如何に(犯罪を犯したか)」がテーマというか、物語の基本的な構造になってくるわけだ。この本の短編集ももちろんそんなルールに従って書かれているが、ガチガチの硬派のミステリー、つまり緻密なトリックを使って難解なパズルの様に組み立てられたそれらとは一線を画する内容で、表題作を読んだ江戸川乱歩は「奇妙な味」と評した様に緻密というメインストリームからは少し外れた独特なミステリーが展開されている。具体的には短い短編の中では多くの場合犯人が読者に明らかにされているので、「如何に」の部分にフォーカスされているわけで、さらにこれも緻密に計算されたトリックというよりは人間の思考の盲点を突く様な、または思考の裏を書く様な奇抜なアイディアであることが多い。作者の出した謎に読者が挑戦するというよりは作者の奇想に読者は幻惑される様な趣があって、そういった意味では一般的なミステリーに比べると自由で柔らかい。流石に幻想味はないものの暖かかくも時に残酷な(この唐突感がなんとも味わい深い)欠点のある人間たちが登場する。そちら方面が色濃くあわられているのがシャーロック・ホームズの影響を受けたというリンリーのシリーズ。ひたすら有能、冷静で知的なリンリーと、知力は劣るものの愛嬌と優しさ、そしてガッツのある小男スメザーズの組み合わせが軽妙。特にリンリーと警部アルトンの真面目な会話にずれた茶々を挟むスメザーズが良い。温かみに微笑んでいると思わぬカウンターパンチを食らわせるかの様な痛烈なオチが小気味良い。

正直なところダンセイニを読むなら間違いなく一連のファンタジー作品群をお勧めするのだが、普段それらに慣れ親しまない人ならこちらの本からてをつけてみるのはよいかもしれない。またすでにダンセイニ作品のファンなら、全く異なる趣のあるこの作品を読むことはまた楽しみになるだろうと思う。

バリントン・J・ベイリー/ゴッド・ガン

イギリスのSF作家による短編集。
日本でも何冊か翻訳されている作家だが私は読んだことがなかった。「ゴッド・ガン」というタイトルに惹かれて購入した。ハヤカワ文庫。
1937年生まれで時期的にも距離的にも「ニュー・ウェーブ」の波の影響を受けたが、結構独自の道を進み続けた特異な人だった様だ。決してメインストリームで活躍したわけではなかったみたいだが、サイバーパンクの立役者の一人ブルース・スターリングはベイリーを師匠と仰いでいたとのこと。

全部の10個の短編が収められていて時代設定は遥か未来のことが多い。当然現代の科学から隔たりのあるガジェットもたくさん出てくる。SFでは特異な設定をそのまま当然のものとして扱うことがあるけど、ベイリーの場合はこれらに対して科学的な(というよりはSF的)な設定をきちんと書いている。もちろん実際ではないのだが一応こういう仕組みで動いているんですよ、と書いてある。私は科学的な頭を持っていないので一体どこまで真実味を含んでいるのかはわからないが、難しい単語が並べてあってそれらしい。ガジェットと合わせてSF好きの琴線を揺さぶる。ただ反面やや難解になりとっつきにくい分読者に対するハードルが高くなることもあるだろう。
あとがきには「ワン・アイディア」の人と評されていて、短編の多くには中心に大きな謎があって、それを日常に属する(設定が未来だったりするから読者のそれとは違う)登場人物がその謎に挑み、そしてそれを解き明かした時に登場人物と読者をあっと言わせる、という一つの形式をとることが多い。こうなると謎とオチのみで構成されたショートショート風の作品を想像してしまいがちだが、(実際この短編集に収録されている物語はどれもそこまで長くない)前述のガジェットも含めて設定とそれの説明に枚数を使うのできちんとドラマが展開されていて読み応えがある。
奇想とも評されるそのアイディアは枠にとらわれず宇宙に広がって行く一方、性差と男性が持つ男性優位性、そこに起因するホモフォビアを軽妙に描いた「ロモー博士の島」などひどく身近なものまで、本当に「なんでかね〜」という疑問に立脚した様々な物語が極彩色に展開される。中でも白眉の出来が「ブレイン・レース」だろう。地球から遥か離れた星で瀕死の重症(文字通り体がバラバラになった)密猟者が、医学に長けた、しかし接触を法的に厳しく禁じられている異星人に助けを求めることから始まる悪夢を描いた作品。内臓が露出した生物、それどころか自走する内臓たち、血と肉に彩られた真っ赤なグロテスクが緻密な描写によってページを通して読者の眼前に展開する。私は血が苦手(だけど同時にフィクション限定で惹かれる)ので通勤途中のバスの中で足が萎える様な感じに襲われてしまってこれが大変楽しかった!

禁忌を物ともせずに想像と表現の限界を軽く超えてくるその作風はなるほど確かにマニアックだが、特定の人にはそれが大変な魅力になるだろう。間違えないで欲しいのは決して倒錯的な作家ではないことだ。ただその想像力に縛りがない(もしくは常人に比べるとゆるい)だけなのだ。書かれている物語は非常にSF的で、硬質かつソリッドである。ある意味無慈悲にグロテスクを書いているわけでそれがまた魅力の一つになっている。
一風変わった物語が好きな人は是非どうぞ。私は非常に楽しめた。

2016年12月11日日曜日

夢野久作/死後の恋-夢野久作傑作選-

日本の作家による短編集。
日本にも三大奇書(元ネタは中国)というものがあって小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」、中井英夫の「虚無への供物」、そして夢野久作の「ドグラ・マグラ」だ。中でも一番著名なのが「ドグラ・マグラ」ではなかろうか。読んだら気が狂うという触れ込みで1935年に発表されて以来、未だに出版され続け人々に読まれている。サブカルチャーに多大な影響を与えて今でも呉一郎やモヨ子というワードを見たりする。ミーハーを地で行く私もそんな訳で「ドグラ・マグラ」を手にとってのは大学生の頃。内容を理解できたのかは怪しいところだが大層面白く読んで、よし自分が何か仮の名前を名乗るならこの本の登場人物からとった正木にし様などと思ったものだ。(幸か不幸か10年以上経ってもそんな機会はなかったが。)その後当時読めた短編集をいくつか読んだ。
2016年は夢野久作没後80年ということで今はことごとく廃刊になっている全集の代わりに!という志で出版されたのがこの本で売上次第では第2弾以降も、ということだそうだ。印象的な表紙の絵はバンドたまの「電車かもしれない」のアンオフィシャル(?)MVで有名な近藤聡乃さんの手によるもの。

独特なカタカナづかいがとにかく印象的な文で語れられるのは凄惨な、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスというやつなのだろうか(私はこの文脈で語れる芸術に触れるといつもナンセンスではないなと思うのだが)。冒頭を飾る「死後の恋」、のっけから狂人の語り口でとんでもない与太話(かどうかの判断はあなた次第)が披露される。その酷いこと。凄惨な殺生の描写がいかにもグロテスクかつ耽美的だ。続く9本の物語も多かれ少なかれそんな色彩に彩られている。ところがやはり昨今の猟奇趣味とは明らかに一線を画す。例えばエルロイのマッチョかつ常軌を逸した男たちの狂気、とは少し趣を異にする。というのも「瓶詰地獄」に代表される様な禁忌、「支那米の袋」に描写される恋の熱情、なるほど夢野久作の描く物語は死体によって彩られているのかもしれないが、じゃあその死体が一体どの様な力学で生産されるか、というそここそが面白い。一言で言えば狂気であろうし、もっというなら狂気に至るまでの道であり、登場人物は実は概ね真面目なのだが、外的要因によって多大なストレスを受ける。そしてその逃避として、またはPTSD的に歪められた精神によって狂気に陥るのであって、凄惨であり猟奇であってもナチュラルボーンのサイコパスの生み出すそれではないのである。そういった意味ではどの物語にも一抹の、それ以上の悲しみとツラさがあり、それがえもいわれぬ味を生み出している様に思う。夢野久作は作家以外にも色々な顔を持つ人だった様だが、その中でもなんとお坊さんだったというから驚きだが、仏教にある因果応報と無常観という概念がよくよくよんでみるとその作品に滲み出ている様にも感じる。「木魂」の主人公の描写を読んでほしい。あれは自縛であって、神経症、うつ病というのは簡単だが、一体最愛の妻と子供を相次いで失った彼が最後の瞬間に何を考えていたか、あるいは何を考えなくてもよくなったのか。誰がどうやったのか、という探偵小説の枠からどう考えても逸脱している作家だと思う。

あなたが狂気が何かと思うなら手にとってみると良いかもしれない。耽美的なそれに続く道はしかし苦痛に満ちたそれだった。禁忌の果実は甘く、そして苦いのだ。

Oathbreaker/Rheia

ベルギーはオースト=フランデレン州ヘントのハードコアバンドの3rdアルバム。
2016年にDeathwish INC.からリリースされた。
2008年に結成されたバンドでボーカルに女性を擁している。今までに2枚のアルバムをリリース済み。
今年の夏にこのアルバム収録曲のMVが公開されるや否や日本のTwitterでも話題になった彼ら。私は慌てて彼らの2ndアルバムを買うくらいのにわかファンで「前から知ってましたけど?」という顔でこのアルバムを買いました。

女性ボーカルのハードコアバンドというとドイツのSvffer、この間来日してたアメリカのDespise You(男女ツイン)、デンマークのGorilla Angrebなんかが思い浮かぶけどこのバンドはそれらのどれとも異なる。あまりに激しくて性を超越しつつある前者ふたつとも、激しいパンクスプリットの中に歌心を混ぜて来るGorilla Angrebともやはり違う。
あえて批判を恐れずにいうとこのOathbreakerはもっと女性であることの強みを活かしたバンドだと思う。ここでいう女性というのは何かというと不安定さに他ならない。Oathbreakerはちょっとどうかしているハードコアバンドだ。世にどうかしているハードコアバンドというのは多いが、なかなかこのバンドに似ているのはない。ほとんどが男性ボーカルというのもある。男性だって不安定になるし、悩みまくったりする。しかしその感情自体、またはその感情を表現としてアウトプットするときに意識的/無意識的に男らしさという強さのバイアスがかかることが多いと思う。女性だってもちろん女性なりのバイアスがかかるのだろうけど、やはり成果物としては女性特有のものになる。OathbreakerのボーカルCaro Tangheは男顔負けに叫びまくるが、クリーンで歌いもする。ウィスパーボイスも使う。不安定に揺れる彼女の声は、正気と狂気のあわいにいる”危うさ”がある。いわば中間色であって、両極端の間で揺れ続けるその不安定さ、そこが魅力だ。ここが女性であることの強み、だと思う。
演奏の方も彼女の声と個性を後押しする様に動く。音で言えば強烈なのはもちろんだが、ボーカルの声を押しつぶすくらいに漆黒に染めらえていない。コード感のあるギターが導く曲は適度な軽さと隙間があるし、速度も劇速ではない。静から動への移行が非常にスムーズなのも特筆すべきで、これは直線上にあってぶれ続ける(女性の)感情を表現している(と思うのだ)。唐突に起こり出す男性とは違う。少しづつおかしくなっていく。そしてまた優しく戻っていく。連続し途切れない波がある。だからちょっと催眠的でもある。激しさをあえて落とすことで”違和感”を作り出している。そう行った意味ではこの上なく不穏な音ではなかろうか。

最高だなと思う。ちょっとどうかしているハードコアで頭幾つか抜きん出ているのでは。話題を読んだリードトラックである1曲め、2曲め、5曲め以外にも良い曲があって今これを聞かないで何を聴くんだ!というくらいおすすめです。

Downfall of Gaia/Atrophy

ドイツはハンブルグ、ベルリンのネオクラストバンドの4thアルバム。
2016年にMetal Blade Recordsよりリリースされた。
Downfall of Gaiaは2006年に結成され(2008年とされることもあるが、3laのインタビューでメンバーが発言。当初はバンド名が違った様だが。)たバンドで今まで3枚のアルバムをリリース。昨年来日経験も果たした。前回のアルバム「Aeon Unveils the Thrones of Decay」からドラムとギターのメンバーが入れ替わっている模様。
タイトルの「Atrophy」は「萎縮」という意味とのこと。
クラストを基調としならがブラックメタル、アトモスフェリック・スラッジ、ポストメタルなどさまざまな異種音楽をミックスした独特の音楽を鳴らしており、ネオクラストと紹介されることもある。

メンバーチェンジの影響からか、前作とは結構印象が違う出来になった。
ブラッケンド、つまりブラックメタルに影響されたクラスト・ハードコアという大きな音楽性自体はブレないものの、曲作りに関しては若干の変更が見られる。
10分にやや満たないくらいの長い尺は相変わらずだが、中身はひたすら大作志向だった前作に比べるとややシンプルになっている。静のパートと動のパートという基本はもちろん、曲の速さやリフなど1曲の中に色々ぎゅっと詰め込んでいたのが前作だとすると、今作はミニマルとまではいかないもの明確なテーマがあってそれを長い尺の中で繰り返すことで盛り上げていく様に作風がいくらか変わっている。
どちらがというのは個人の好みだろうが、私は今作の方が好きだ。やや難解だった前作は聴き処が明確に際立ちすぎていたが、さすがに聴き処以外は魅力なしというわけではないが、今作はあえて削ぎ落としてきていることで全編聴き処にすることができていると思う。つまりこのバンドの持ち味である、激しくも感情的に突っ走るトレモロリフが全編にわたって楽しめるからだ。端的に言えば魅力を10分弱聴かせることができているということじゃないだろうか。繰り返すがこの評価はこのバンドに何を求めるかでかわってくると思う。表層的にはかなりブラックメタルの要素が強いが、外に開いていく様な開放感(閉塞感だけにとらわれない)、そして明るいとまでは言えないものの光に向かう様な必死かつ温かみのあるリフに込められたメロディー(3曲め「Ephemerol」の美しさ!)を考えると(そしてまたインタビューでもパンクが出自という通り)その中身はブラックメタルとは違う何かを感じ取れる。
喚き声のボーカルに一切キャッチーさがない反面、疾走するトレモロリフがメロディアスを担う。「言葉にすると嘘になる」割とよく聞くフレーズだが、確かに言語化するとわかりやすくなる反面、意味が固定されてしまう。渦巻く感情をテーマにする場合は言語に頼らない、つまりそれ以外(別に音楽でなくても絵画とかでも)で表現するのは非常に理にかなっていると思う。ただ激しいだけでない、激情/ネオクラストと表現されるゆえの、悩みや不安、そして言葉にならない事事が反映されたDownfall of Gaiaの音楽がこの様な携帯を取るのは必然かもしれない。(そうなるとジャンルが先に来るのか、後に来るのかって問題があってこれをどう考えるかは非常に面白いと思う。)

長所をぎゅっと濃縮してきた新作。私はこの変化を非常に楽しめた。前作がやや難解だったという人も今作は楽しめるんではなかろうか。非常にオススメ。

REDSHEER x NoLA Split 7inch ~Gray Matter~ Release GiG@東高円寺二万電圧

年の暮れも迫った12月の日曜日、昼間の12時から高円寺でTILL YOUR DEATH RECORDSのコンピレーション第三弾で収録されているREDSHEERとNoLAがスプリット音源をリリース。そのタイミングでライブをするというので足を運んだ。日曜日は出不精になりがちだけど昼間からというのは嬉しい。
鈍りがちな体も動かしたいし、高円寺なら大丈夫かな?と思って自転車で新宿経由で行ったら道に迷ってまさかの遅刻。(ちなみに自転車楽しかったけど超疲れた。)既に一番手REDSHEERが演奏中。一生の不覚。フロアはかなり埋まっている感じ。
二万電圧は初めていったのだが、革ジャンに身を包んだスタッフが外に立っているからわかりやすいし、ソフトドリンクでグレープフルーツジュースがあるのが個人的にはよかった。

REDSHEER
入ると前述のコンピに収録されていた「DistortionsControtions」のちょい手前。
ベースボーカルのオノザトさんは既に汗だくで鬼の形相である。
最新音源を聴いても思ったが(というかそういう趣旨で集められたコンピなので)、REDSHEERはその歪んだ音像に圧倒されるが、激情/カオティックに親和性がある。ただ美麗なポスト感や贅沢な音使いが絶望的に皆無で、3人編成で余計なものを極力削ぎ落としまくっているし、出来上がった音が(日本の)激情系特有のユースっぽさを微塵も感じさせないので、それらと比べると結構違和感があるのだと思う。しかし、マイクを食べる様な勢いで喚きまくり、そしてときに歌う様なボーカルだったり、豊かな表情を持つ複雑な曲展開だったりは確かに激情の影響が色濃い。今日改めてなまで見て思ったのは、REDSHEERは非常にエモーショナルなバンドだ。イカツイ見た目(と音)に惑わされがちだが、ギターに注目してみるとこの上なく感情に溢れている。低音一辺倒ではなく良い感じに粒々した音がぎっしり詰まっている様な音が個人的にはとても好きだし、そんな音で披露されるブラックメタル顔負けに弾きまくるトレモロリフ、鋼鉄の塊の様に叩きつける低音はひたすらかっこい良い。何と言っても細かい音で作られるアルペジオが魅力的でクリーンかつクリアでゆったり、ディストーションがかかった速度の速いものだったり同じアルペジオでも出される色が全く違う。どれもが非常に感情に満ちている。REDSHEERはボーカルがないパートも結構な比重を占めるけど、むしろそんなパートに言葉にできない感情が溢れている様に思う。リズムをキープしつつ音の数が多いドラムはSadness Will PrevailらへんのToday is the Dayのそれにちょっと似ているなと思った。
全体的にギュルギュルと内巻きの螺旋で落ちていく様な、そんな悲壮感、絶望感がある。しかし退廃的というよりは首だけになっても噛み付いていく狂犬の様な、そんな強烈なエネルギーに満ちている。これが高揚感と、そしてさらに胸の奥深くに突き刺さってくる。とにかく無駄がない分全編異常な緊張感に包まれていてヒリヒリしたという形容詞がぴったりだ。こういうタイプのバンドと音でライブを見てこんな感情が湧いてくるというのが個人的には驚きで、そして非常な楽しみである。やっぱり最高だ。どんな言葉より励ましになる。

NoLA
続いてはNoLA。前述のコンピで聞いたのみなのでほとんど前情報がない。
5人組のバンドでボーカルは専任。メンバーは皆背が高く細い。スタイルが良いのでよくステージで映えていた。
曲が始まるとREDSHEERとは全然違う!!すごいびっくりした。もっと素直にエモバイオレンスな激情かな?と思っていたのだが、音自体はかなりサザンロックというか泥臭いビンテージなロックの影響のある、ともするとElectric Wizardを豊富とさせるためのあるリフが飛び出してくる音を演奏していた。ただこれを凶暴にアンプによってブーストさせていてもはやドゥーム感はほぼない。スピードも速いし、テンションも高めで外に外に開いていく感じ。バネが仕込まれている様に跳ねる大音量のバスドラムが生み出すビートに身を任せていくと異常な高揚感に浸れる。専任ボーカルは楽器がない分ステージ上のアクションで魅せる。長い手足を活かして動き回る、白目をむいてヘドバンする、客席に倒れこむ、お客さんの帽子を被る、などなど。次は何をするんだというワクワク感は激しい音を鳴らすバンドを象徴する魅力的なキャラクターだと思った。REDSHEERにあった閉塞感・緊張感などの陰性の雰囲気はあまり感じられず、とにかく粗野で凶暴だ。本能に訴えかけるボディミュージックで良いも悪いもあるかという感じ。例えば草食動物を捕食するライオンを見て良いとか悪いとかいうのは変でしょう。ただ暴力的で恐ろしいがなんとなく野生を捨てた人間には魅力的に見えてしまう。NoLAはそういったバンドの様に感じた。とにかく凶暴、獣。非常に楽しかった。

REDSHEERとNoLAは同じカテゴリでも正反対と言っていいほど個性の異なるバンドだと思った。ハードコア、非常に懐の深い音楽。スプリット音源とNoLAの音源2枚を購入して外に出ると冷たい12月の外気が暑くなった体が良い感じに気持ちよかった。日差しも気持ちよくてお昼のライブは良いものだな〜と思った。(感想もその日中に書ける!)
主催者・出演者の皆様ありがとうございました。

2016年12月4日日曜日

Mantra/鼻とゆめ

日本は福岡のロックバンドの3rdアルバム。
2016年にPops Academy Recordsからリリースされた。
「何だかよく分からないけれど、とにかくすごい。」がコンセプトのバンドだそうで2007年から活動している。メンバーは3人だが、ライブ時などはそこに各種メンバーを迎える形で活動している模様。その活動は楽曲制作にとどまらずバンドのMV、絵画(オフィシャルでいくつか見ることができる)などの芸術領域で活動しているとのこと。天狗に思い入れがあるらしく、メンバーが天狗ということなのだろうか。
私は何をきっかけで知ったのか忘れたが、とにかくこのバンドの「鼻男」という曲が気に入っていたので、その曲が収録されているというこのアルバムを買った次第。

コラージュがなんともヒドイ特徴的なジャケットで私が買ったCDにはなんと特典として退職届がついている。帯にはこう書いてある「全ビジネスパーソン必聴!!〜御社の利益に貢献する珠玉の15曲〜」なんとも嫌な煽りである。通常ビジネスから逃げる手段としての音楽ではないのだろうか。凝ったやたらと厚みのあるインナーを開くと「休みなんていならない 人生の全てはビジネスにコミットしてしている」とかどこかで聞いたことのある様な嫌なワードが散りばめれている。
どうもとある疲れた「ビジネスパーソン」の心の様、その移り用を時系列におったコンセプチュアルなアルバムらしく、ある楽曲に出てくるワードが以降の曲にも引き継がれていたりと全体が一つの流れになっている。楽曲自体はかなり縦横無尽で、ロックにしてもその感覚は広く開かれており、ドゥーワップ(違うかも)だったり、重さのあるハードロックだったり、いかにもなポップスだったりとその守備範囲はとんでもなく広い。まるで表情豊かな劇を見ているかの様なバラエティ感と、それを突き通すコンセプトが作る統一感を楽しめる。
全体的に”いかがわしさ”が多分に含まれた楽曲であって、それが毒となり、ユーモアとなりのフックとなり、形態的にはやたらとレトロなアレンジだったり、逆にめちゃくちゃキャッチーでJ-popを感じさせるメロディラインやギターソロに現れている。やけに朗々とした良い声のボーカルや、バンドアンサンブルに加えてパーカッションやピアノ・シンセサイザーを取り入れた表情豊かな技術でもってその”いかがわしさ”を贅沢に表現している。
ビジネスパーソンという概念を用いることで人を過労死させる現代社会をネタにしつつ、次第に疲弊していき心を壊されていくその過程を物語的に見せていくことで、その過酷さを強烈に皮肉、批判しているレベル・ミュージックだ(と思う)。特にその”病み”を表現するのがボーカルでこの人が老婆の声から、切羽詰まったビジネスパーソンの声、完全に正気をうしなった鼻男の声と、完全にどうかしている感を一手に担う。現実から目を背けさせずに、あえて”ユーモア”という糖衣に包みつつリスナーにビジネスパーソン界隈の非情さに直面させるその姿勢は真面目かつ、なかなかラディカルであると思う。ラスト「終幕」の穏やかさは一体何を表現しているのか。その安らぎが何によって得られたのか、と考えると怖くなってしまう。
「営業日誌」なんかを会社で聴いているとなんとも背徳的な気分になって面白いし、実際「老婆の店」なんかを聞くと笑いが漏れて同僚に変な顔をされること請け合いである。
個人的にはルーツであるRammstein(コピーバンドだったらしい)を感じさせる「鼻男」の様なヘヴィさを備えた楽曲がもう何曲か聞きたいところ。

という訳で終わりのない日常に忙殺されているビジネスパーソンはまさに必聴。「コミット」に代表される横文字に殺意と吐き気を催す社畜の皆様はこのアルバムを聴いてサディステックな(あるいはマゾヒスティックな)笑みを浮かべて見るのはいかがでしょうか。私は非常に楽しんで聴いている。おすすめ。

Anaal Nathrakh/The Whole of the Law

イギリスはバーミンガムのエクストリームメタルバンドの9枚目のアルバム。
2016年にMetal Blade Recordsからリリースされた。
ブラックメタルにグラインドコアの激しさをミックスした激しい音楽性でファンを獲得。今年の夏には待望の初来日も果たしたAnaal Nathrakhの前作から2年ぶりの新作アルバム。セルフプロデュース作品。
私は2003年のEPを当時買ったきりだったが、ふと思い立って前作「Desideratum」を買ったらこれが非常にかっこよくて愛聴。新作ということで一にも二にもなく買った次第。ちなみに今年の夏のライブは行きませんでした。

メタル、ハードコアでも男がやる激しい音楽というのは一個の指向性として”強そう”というのがあると思うのだ。ひたすら重くなり、音の数は多くなり、速度は速くなる、声も叫びを通り越した獰猛さを備えることになる。一聴した限りAnaal Nathrakhはその方向性を突き詰めた音楽を演奏している様である。ひたすら連打されるバスドラム、重たさと速さを兼ね備えて突っ走るトレモロ、咆哮するボーカル、それらに加えてノイジーなインダストリアル要素、大仰で広がりのあるクラシカルアレンジ。ブラックメタルという範疇に限らず進化するメタルの一つの到達点、少なくとも今後進化し続けるジャンルの一つの里程標ということができるのではなかろうか。
Anaal Nathrakhはマニアックなバンドだが、アルバムは(たぶん)売れている方だし完全に知る人ぞ知るバンドではない。音質は非常にクリアだし、例えばゴアグラインドやノイズブラックメタルの様な先鋭化するあまり完全に玄人好みのバンドになっているわけではない。一つは強さを指向するバンドが例えば軟弱さの一つとして切り捨てているメロディラインを曲の中で効果的に使用している。朗々とした(Anaal Nathrakhは何と言ってもボーカルが大変魅力的だ。叫ぶにしても歌うにしても抜群の声量が圧倒的に説得力を増してている。)クリーンボーカルが歌を取るそのメロディラインは、一般的な楽曲でいうところの「サビ」の様に捉えることができる。曲の苛烈さと、歌いやすいキャッチーなメロディ。やはりこの組み合わせは人を惹きつける。クリーンボーカルだけでなく、ブラックメタル然としたイーヴィルなシャウトに緩急のあるメロディーも入れてくる。ここら辺はもともと寒々しく人を寄せ付けないながらもそのコールドさの背後に隠したメロディセンスが重要なファクターになっているブラックメタルという背景を強烈に感じさせる。
前作に比べて明らかに劇化しており、気持ちの悪いうねりのあるファルセットボイスを大胆に取り入れたり、マニアックかつ濃厚な曲でありつつもアレンジを閉鎖的でなく外に外に広がっていく様に大仰にしたりとなんとなく劇場感すらある。
個人的には2曲目の「Depravity Favours the Bold」の後半のクリーンパート、特に2分15秒あたりからの、大きく広がるあのクライマックス感。真っ黒い暗黒舞踏で急に強烈にスポットライトを当てられたかの様な、声の堂々とした主役感、これだけで完全にやられてしまった。圧倒的な強さ。

ぶれない強さを発信し続ける最新作。過去作が好きな人は迷わずどうぞ。とにかくむしゃくしゃしているぞ、俺はという悩める諸兄も芸術に触れてその煩悩を晴らすのはいかがでしょうか。

2016年11月27日日曜日

V.A./TILL YOUR DEATH Vol.3

日本のレーベルTILL YOUR DEATH Recordsから2016年にリリースされたコンピレーション。
「お前が死ぬまで」というタイトル(レーベル名)はToday is the Dayのライブ盤「Live Till You Die」をなんとなく彷彿とさせる。このレーベルは年末恒例となっているイベント総武線バイオレンスも主催。去年足を運んだがデスメタル系のバンドがベテラン、若手まで名を連ねて非常に楽しいイベントだった。

今回このオムニバスはそんなレーベルが持つもう一つの側面、ハードコアにフォーカスし、国内で活躍するバンドを集めたもの。11バンドが1曲ずつ持ち寄りアルバムを構成している。収録バンドと曲目は以下の通り。
1.ANCHOR「物語」
2.CYBERNE「Thrash -独裁-」
3.Dead Pudding「Untended」
4.kallaqri「水仙」
5.NoLA「You're Useless」
6.REDSHEER「Reality To Disappear In The Letter Of Unnatural Fog/DistortionsContortions」
7.URBAN PREDATOR「THE NORMAL」
8.weepray「カルマ」
9.wombscape「枯れた蔦の這う頃に」
10.明日の叙景「花装束」
11.冬蟲夏草「催奇性と道化」
※レーベルのブログより拝借しました。
新潟で長いこと活動するANCHOR、大阪のCYBERNE、青森のkallaqriなどハードコアを演奏しているなら首都、地方関係なく全国からバンドが参加している。さすがにどのバンドもオリジナリティあふれる曲を演奏しており、ハードコアという軸はあるもののそれぞれにかなり印象の異なる趣がある。また一方で共通する軸は確かにあり、それがなんなのかというのを考えるのは非常に楽しい。

まず歴史的にというよりは個人的に激情ハードコアというとenvyのイメージがある(一番初めに触れてハマったのがenvyだったため)んだけど、そこからの流れを感じさせるぎゅっと詰まったカオティック(ハードコアの勢いを残しつつ曲の展開がある程度複雑である)で音の数が多い曲に文学的で批判するというよりは内面に切り込んでいき、また他者を肯定し励ます様な歌詞をちりばめ、それらを生かすために激しさに対してアンビエントなパートを入れるバンド達。前述のANCHORやkallaqriなどは比較的忠実にその潮流に乗ってさらにそれを自分たちなりに深化させている様に感じる。いわゆるEbulltion Records(3枚この間聞いたばかりであまり偉そうにできないのだが)との共通点もありつつも、より内省的なのは非常に日本的だなと思う。特に静かなパートには国内の方が力を割いているイメージ。
それからCYBERNEやNoLAの様なハードコアの激烈な推進力にパラメータを全振りしたかの様な突進力のあるエモバイオレンス系。EbulltionならOrchidなのかもしれないが、さすがに時代を経てこちらの方がメタルなどのジャンルも経由し咀嚼したブルータルなサウンドでエモさも大分非情になった。青臭さをはるか通り越しむしろバイオレンス。個人的にはNoLAの曲はこのコンピの中でも指折りのかっこよさだが、ハードコア感溢れるイントロと金切り声で「役立たず!」とリフレインする終盤が恐ろしいほどに感情的だ。
それからREDSHEER、weeprayの様に激情の流れを確かに感じさせながらも独自の道を深く切り込んでいくバンド。簡単にいうと迷いあぐねた結果明らかにどうかしてしまった様な捻くれた音楽を鳴らしている。REDSHEERのいきなりのアンビエントパートは美しも(それ故)不穏で、後半怒涛の展開になだれ込む様は相変わらず凄まじい。うねりのあるハードコア的な演奏は確かに伝統的だが、乗るボーカルが激情の流れからすると邪悪すぎる。別に人生はクソだ!と言い切るわけではないが、良し悪しを経て割り切れない人生に唾を吐きつつ未だに執着を捨てられない様な力を感じる。突き放した様な演奏とよく合う。REDSHEERが個人的には目当てだったのだが期待を上回るよさ。それからボーカルという意味では音源では初めて聴くweeprayも悩みすぎて現実社会とずれだした様な高音のボーカルと撤回の様な重たく叩きつけるギターリフが混じり合った曲で踏み外した感のあるハードコアを演奏している。爪弾かれるアルペジオもそうだがあえて外している様な不安定さがあって黒いハードコアという印象。
激情をモダンな音像でアップデートしたかの様なwobmscape、ポストブラックを感じさせる爽やかな叙情的なアルペジオが魅力の明日の叙景(もっとブラッケンドかなと思ったら予想よりハードコア色強くてむしろ大変かっこいい。)、オルタナ〜ニューメタル世代の怪しいごった煮さをスピーディに混ぜ込んだ忙しない冬蟲夏草の最後の三曲はこれからの日本の激情ハードコアを華々しく提示する様なメッセージ性を感じた。

現行の日本の激情ハードコア界隈を手っ取り早く知りたいのなら間違いない音源ではなかろうか。単純にこの手の音が好きなら買って絶対間違いない。非常に楽しめるアルバムなのでとてもオススメ。

2016年11月26日土曜日

Car Bomb/Meta

アメリカはニューヨーク州ロングアイランドのマスコアバンドの3rdアルバム。
2016年に自主制作にてリリースされた。
Car Bombは2000年に結成されたバンドで割とメンバーが流動的なアングラ界隈では珍しく結成当初から不動の4人体制のようだ。以前は激音レーベルRelapse Recordsと契約していたが今回はどことも契約していない状態でのリリースとのこと。私は前作リリース時に「車爆弾」とは剣呑な名前だなというのとアートワークが独特だなと思っただけど手は出さなかった。今回は本当になんとなくBandcampでかってみた。今回もそこはかとなく理系な匂いのするアートワークが印象的。

マスコアってことでなんとなく技巧的で高音でギターをピロピロしているハードコアなのだろうなと思っていたのだが、豈図らんや聴いてみると結構そんな先入観とは異なった音楽を演奏している。Meshuggahにすごい似ている。ガツンガツンと細切れにした低音リフをパーカッシブに演奏する。技巧的と言っても正統メタルなピロピロ感はほぼなく、デロデロデロとした垂れ流すようなリフの積み重ねや、来るか?って時にあえて外してきたりととにかくリズム、リズム、リズム。音のバリエーションはテローンと伸ばしたり、ハーモニクスなどの高音を飛び道具的に入れてきたりする。ドラムもテクニカルかつ正確でギターと合わせたり、意図的にタイミングをずらしたりする、こちらもドカドカ、休止、ドカドカ、休止と言ったように休符と言うか細かいストップアンドゴーを繰り返すフレーズが多用されている。ここで言うストップアンドゴーは速度は一定だが休止が多いと言う意味。速度は早くも遅くもない中速でどっしり系。非常にマシン的であり、知的な音楽になっている。私はDjentというジャンルをほとんど全く聴いたことがないのでなんとも言えないのだが、少なくとも昨今のMeshuggahには多大な影響を受けているのだろうと思う。デス声までいかない、高音スクリームを織り交ぜたドスの効いたボーカルもJens Kidmanを彷彿とさせる。
こうなるとじゃあMeshuggahとどこか異なるのかというのがこのバンドの持ち味になって来るわけだけど、このバンドは結構テクニカルかつ無機質なパートに有機的かつメロディアスなパートを織り交ぜて来る。この時ばかりはボーカルもクリーントーンでわかりやすいメロディ(キャッチーとまではいかない位)の歌を歌う。ここら辺はMeshuggahにはない部分かと思う。メタルコアっぽいというよりは個人的には往年のニューメタルっぽさを感じた。クリーントーンにエフェクトをかけたりするところとかは特に。演奏が複雑という意味では明確にニューメタルとは違うのだが、曲作りにはそこを通過したような残り香がある。明確にマシンパートとニューメタルパートを分けた楽曲も良いけど、4曲め「Gratitude」の様にその両者の要素を溶け込ませたハイブリッドなつくりの曲に独自性と面白さを感じた。そのあとの5曲め「Constant Sleep」も騒がしい前半と不穏な後半が楽しい。

というわけでMeshuggah好きで三十路くらいの人は聞いてみるとおやと思うかもしれない。冷徹な音楽なのに頭でっかちになりすぎないところが良いバランス。

アーヴィン・ウェルシュ/トレインスポッティング

イギリスの作家による青春小説。
どちらかというとダニー・ボイル監督、ユアン・マクレガー主演の映画の方が有名かもしれない。かくいう私も高校生くらいの時に夜中にやっているのを見たことがある。内容は綺麗に忘れてしまっているが。そういうこともあって手にとってみた。ハヤカワ文庫補完計画全七十冊のうちの一冊。

大英帝国スコットランドに住む20代の青年マーク・レントンは重度のヘロイン中毒者だ。定職にはつかず複数の地域から生活保護を受けるシンジケートに所属し、違法に手に入れた金で麻薬に溺れている。親友のスパッドは優しい性格だがやはりジャンキー、シック・ボーイは理屈っぽく上から目線でセックス中毒、気分にムラがある横暴なベグビーは暴力中毒だ。レントンには夢も希望もない。ただヘロインをやっているときは生きていく上で発生するあまたある悩みがたった一つに減る。つまり次のヘロインをいかに手に入れるか、だけだ。ただ、ヘロインがあれば良い。

この小説には物語を突き通している背骨の様な大筋がない。レントンを始めその周辺の若者たちの毎日の些細な出来事を短いスパンで次々にかさねていく。概ね彼らは何かに酔っていて、それに支配されている状態だ。物語に筋がない理由は簡単で、ジャンキーは依存しているブツがあればそれで事足りているからに他ならない。
「トレインスポッティング」には何かおしゃれな感じがある。悪いことというのは(未熟な)人間を惹きつける側面があることはどうしても否定できないのではなかろうか。ハイ・セレブリティたちの優雅な嗜み、ドラッグはそんな悪いことのある意味では頂点だ。退屈な非日常から抜け出してくれる、他人を(表向きは)傷つけない、適度に自傷的な退廃を含んだ刺激物。なるほど飄々と真面目に会社に行くためにバス亭に並ぶレントンらは、ムカつくという理由だけで他人に喧嘩をふっかける彼らは、法律をはじめとする私たちを縛るルールから外れて自由に見える。しかし意図的なのか、それともジャンキーたちの実態を克明に描いているのかわからないが、読んでみるとレントンたちの日常は悲惨である。当時(1980年代末)の英国、スコットランドの不景気をはじめとする悲惨な状況にもその一端はあるのだろうが、作者は意外にもそこには主人公たちの軽口くらいでしか触れない。レントンたちの毎日は様々な麻薬と中毒に彩られて毎日大差ないない様に見えるが、実はそうでない。幼馴染との関係は悪くなり、家族からは白い目で見られ対立する様になる。使いまわした注射針でHIVに感染し、若いのに老人の様にふけこみ、死ぬ。神経質になり暴力的になる。暴力の矛先は弱いもの、他人と違うものに向かう。女性は泣く、子供は殺される。ハッピーなドラッグライフは後半になるにつれてそのメッキが剥がれてくる。孤立しているはずのジャンキーたちだが、むしろ社会的な生物である人間の側面が強調されて行く様に思える。ヘロインがあれば悩みがなくなる、と嘯くレントンもその例外ではない。
麻薬を打つからクズなのか、それともクズだから麻薬を打つのか知らないが、アーヴィン・ウェルシュが言いたいのは麻薬が人間性の何かを(良い方向に)変えるということは全くなく、ただ世の中がクソだってことなのではと思った。別に周りがクソなのでジャンキーになるのは仕方ないという言い訳ではないし、麻薬をやる人間が麻薬をやらない人間を不幸にするという事実を、この物語に「軽妙さ」を求めるなら異質ですらあるキャリアのジャンキーにレイプされた彼女からHIVに感染した男のエピソードにそれなりのページ数を割いて読者に叩きつけている。それからレントンの親友スパッドのおばあちゃんのエピソードにある人種差別の身近な現状。麻薬をやらなくても現状はクソで、さらに麻薬を打っても実はその状況から抜け出すことは叶わず、そして確実にそのクソの中でもさらにクソににおちこんでいく。
「基本的に人間てのはさ、短くて無意味な人生を送って死ぬだけなんだ。だから人生にクソを盛る。仕事だの、人間関係だの、クソみたいなものを盛るおかげで、人生もまんざら無駄じゃないかもしれねえって勘違いするわけだ。」
こう嘯くレントン、彼が最終的にどのように麻薬と縁を切るのか、というエピソードを考えると享楽的の裏側にあるのはある種厭世観を飛び越した究極的なニヒリズムだ。

映画を楽しく見たという人にこそ読んでいただきたい一冊。非常に面白かった。

Oppression Freedom Vol.14 Monarch!/Birushanah Japan Tour 2016@新大久保アースダム

フランスから地獄ドゥームMonarch!が2年ぶりに来日。でもってまた日本は大阪の和製トライバルスラッジBirushanahとツアーをするという。東京はCoffinsの企画。2年前もBirushanah帯同でしかも東京公演はCoffins企画。腰の重い私もちゃっかり見にいったのでした。あれから早いものでもう2年経つのか〜。
しかし今回東京公演は11月25日(金)という平日だったが、前回が楽しかったのと何と言っても現行オルタナティブSunday Bloody Sundayが参加するというのでどうしても見たかった。そんな訳で仕事場のトイレの窓から脱出した私は一路新大久保に向かった。
18時オープンの30分開始で私がついたの45分くらい。もう始まっているかなと思ったら幸い押している様だった。流石に定時ダッシュかまさないとな平日の早い時間帯なので人は少なめ。(最終的には大分入ってました。)

CARAMBA
30分押しで一番手はCARMBA。
日本の3人組のスラッジバンドでフィードバックノイズ垂れ流し系に厭世観たっぷりの喚き声ボーカルが乗っかるタイプ。かっこいい。開始10分ぐらいで思ったのが「こりゃGriefや」、道理でかっこいいはずだ。音は馬鹿でかいが完全低音志向ではなく、ざらっとひりついた高音も混ぜてくる音作り、リフの境界が融解した様な圧倒的ドゥーム感はまさにGrief。ただGriefに比べるとリフがさらに溶けている。そして微妙にゆったりとしたストーナーなリズム(特にベースかな??)がある。Griefにあるビンテージロック感やグローヴィサはあまり感じられなくてかなりの地獄。完全に人嫌い、世界嫌いな世界観で一切MC無しの潔さ。音源買っとけばよかったな。

Sunday Bloody Sunday
続いて日本のオルタナティブロックバンドのSunday Bloody Sunday!前述の通り今回のお目当。とにかくこの間リリースされた1stアルバムがかっこいい。いわゆるあの頃の「オルタナ」を2016年の今に演奏しているバンドで郷愁を感じさせつつも独自性を打ち出したその音楽性は音楽付きの三十路あたりを魅了してやまないとか。
ライブで聴くとものすげ〜〜〜カッコよかった。帰り道音源聞いたのだけど、結構かっちりまとまった音源に比べるとライブは当たり前だけど音がでかくて荒々しい。迫力満点で私の頭に思い浮かんだのはアメ車だ。でっかいハマーみたいなのではなく、ムスタングみたいなちょっと昔のかっこいい奴。ぎらりと光る金属の塊めいた乱暴さと粋を凝らした職人芸の技術がある感じ。とにかくギター/ボーカルの方のダボっとした佇まいがオルタナ感満載なのだが、出す音も中音が分厚く、刻みまくる小節の終わりに伸びるギターの音が艶やかで痺れる。エフェクターも多めで音作りにも気を使っているのだと思う。曲に対してボーカルの頻度がものすごく多くないのは、こうやって演奏を楽しむためなのではと。ドラムとベースは正確に土台を作っていってギターが歌いまくる。幼さを感じさせる甘めのボーカルも良い。この声が良いんだな〜と思う。例えばこれが強いとかっこいいけどHelmetには敵わないかもしれない。Coaltar of the Deepersみたく重めの演奏と甘めのボーカルの対比がオリジナリティ。

Birushanah
三番手はツアー主催日本は大阪のありがたい仏様(びるしゃなは毘盧遮那といって仏様のお名前なんだそうです。)スラッジメタルのBirushanah。個人的には本当好きなバンド。ドラムのメンバーが変わったんだと思う。アフロの人になってました。この手のバンドは珍しくステージのライト全点灯状態(多分)でメタルパーカッション(ドラム缶やタイヤのホイールなどを金属のスティックでぶっ叩く)の佐野さんの味のある口上でスタート。Birushanhはだいたい音源を持っているのだけど最初の曲はわからなかった。ひょっとしたら誰かのカバーだったのだろうか。「炎の中に投げ込む」みたいな歌詞が印象的。SBSと違ってエフェクター2個しかないギター/ボーカルのIsoさんは歌いまくりでその風貌もあってインディアンの歌姫みたい。「窖」(好きすぎるのでテンション上がりまくり)の変形から最新作魔境の「瞼色の旅人」へ。間に佐野さんのしゃべりを挟みつつ「鏡」で最後は佐野さんの銅鑼乱打でしめ。この曲は本当私歌えるからね。
「鏡」のイントロもそうだけどメタルパーカッションとドラムという打楽器二つが執拗に反復していく催眠性のある呪術的なスラッジでフロアを魔境に連れていくスタイル。後述のMonarch!と違って陰陽溶け込んだ異界っぷりはお祭感すらある。無二のバンドではなかろうか。CavoのCDとツアー初日の朝までかかって作ったというパッチが付いた魔境のカセットを購入。前回に引き続きおまけにポスターをもらいました。

Coffins
続いて企画の主催者、東京オールドスクールデスメタルCoffins。何気にCoffinsは何回かライブで見ている。いろんな企画に引っ張りだこということなんだろうな〜。
ドゥームの要素色濃いパワフルなデスメタル。今回改めて思ったのはドラムの力強さ。結構涼しい顔してアタックが相当強い。速度のコントロールには並々ならぬこだわりを感じさせせており、ドゥーミィなパートの重たさは勿論、ツタツタ刻むパンキッシュなドラミングも非常にカッコよかった。一見非常にとっつきにくい雰囲気なのだが実はかなりキャッチーでファンは勿論、初見でも盛り上がりやすい曲構成とそしてやはり熱い体温でフロアも盛り上がること。私はCoffinsスプリット音源しか持っていないのだけど、最後の曲は本当楽しかったな〜。ボーカルの人は最後フロアに降りてもみくちゃに。あれなんていっているのだろう?絶対100%違うだろうけど「B-boy Nation」に聞こえるな…とか思っていました。

Monarch!
最後はフランスの地獄ドゥーム。このバンドボーカルは紅一点女性なのだろうけど体調不良で今回のツアーはおやすみ。代わりにベーシストがボーカルを兼任することに。これはこれでレアだぞ、とみなさん思ったはず。ボーカリストEmilieはボーカルの他にエレクトロニクス(机に楽器置いて蝋燭を立てる)も担当しているからそこがなくなるとどうなるんだろう?という期待もあり。
完全に圧殺系ドゥームメタル。フィードバックも含めて全て低音にフォーカスされているので例えば一番手のCARAMBAとはかなり音のイメージは異なる。ドローンの要素が強いといっても良い。ただドラムが強烈で長身から腕をまっすぐ伸び切るくらいまで伸ばして(スティックをクロスさせる)から渾身の力で振り下ろす。全ての音がでかい。ボーカルは空間系のエフェクトをかけた歌詞のない絶叫スタイルで、地獄の谷にこだまする悪霊か、もしくは突風が立てる音のようで恐怖感を煽る。呪術的であるがBirushanahのお祭り感は皆無でひたすら重苦しくすりつぶす。ライトを落としたステージは長方形に切り取られさながら水槽のようだが、すぐに間違いに気づく。フロアが水槽でメンバーが音で私たちを溺死させようとしているのだ。控えめにいっても地獄だ。そしてそれが好きな奇特(危篤)な人たちもいるのである。音楽の性質から言ってインプロの要素が強いのかと思ったが実はかなり決めるところは決めるスタイルで、特にギターの二人はユニゾン(同じフレーズをフレットというか音域をずらして演奏する、ユニゾンじゃないかも)で弾いたりしてかなり実は凝ったことをしている。ライブ後に知ったのだが、ギターの人はポストメタル/スラッジバンドYear of No Lightでも弾いているそうだ。なるほど。
散々っぱら牛歩ドゥームを披露した後2年前と同様最後は爆走ハードコアナンバーで締め。フロアはむしろ呆然とした様子で面白かった。

というわけで2年前に勝るとも劣らず今回も楽しかった。結構アプローチが違うMonarch!とBirushanahが仲良しというのは面白いな〜。今度はEmilieも体調治してまた2年ごという話になっているので早くも楽しみ。

2016年11月20日日曜日

ネヴィル・シュート/渚にて

「世界の終わり」という言葉には何かしら人を惹きつけるものがある。
この言葉を聞いてまず私の頭におもいうかぶのはThee Michelle Gun Elephantの楽曲である。

この歌の歌詞はストレートだ。「世界の終わりを待つ君」というテーマについて静寂をつんざくように切り裂く激しいギターに合わせて歌われている。
世界の終わりはロマンティックだ。既存の煩わしいルール、人物、約束、物事に対する胸のすくような大破壊とそしてそこから何か私たちが全くみたことのない新しい何かが始まる予感がするからだ。
世界の終わりを考えるとき人は無意識に世界の終わりとそのあとの自分を思い浮かべるのではないだろうか。
そんな「世界の終わり」に対して容赦のない虚構を叩きつけるのがこの作品である。

ソ連と中国の間に端を発した争いは第三次世界大戦に発展。コバルト爆弾が飛び交いあっという間に世界は週末を迎えた。核兵器が撒き散らした放射能で世界のほとんどの地で生物は絶滅した。南半球の一部を除いて。アメリカ海軍に所属する原子力潜水艦「スコーピオン」は辛くも難を逃れ、オーストラリアの汚染されていない都市「」に寄港する。艦長タワーズは現地の人と触れ合いながらも今はなき故国に想いを馳せる。そんな中すでに住むものがいないはずのアメリカからモールス信号がはるかオーストラリアまで届く。信号は意味不明のものだったが、信号を飛ばすには電気が必要だ。タワーズらは万に一つの可能性を確かめるために「スコーピオン」でアメリカに向かう。

世界の終わりをテーマにした作品にしてはタイトルの「渚にて」はおとなしすぎるだろうと思う。
この物語は非常に抑えた筆致でときにのんびりとしているほど、そして意識的に温かい雰囲気で描かれている。心温まる、感動するといういっても良い。だが扱っているテーマはまぎれもない、世界の終わりについてである。
オーストラリアは戦火を逃れたが、放射能は北半球から地球全域に拡散し続け、およそ半年後にはオーストラリア全土ですら生物の住めない土地になってしまう。いわばもう人類と生物は余命宣告をされた状態である。電気は通じているがガソリンが貴重品で車の数は劇的に減っている。
そんな状況下で原子力潜水艦「スコーピオン」の関係者である、艦長タワーズ、オーストラリア海軍の 夫妻、同じくオーストラリア軍属科学者 、夫妻の友人でタワーズと接近するモイラを中心に物語は進んでいく。
この物語はとても不思議だ。世界の終わりの前の穏やかな生活を描いている。カタストロフィーを前にこの静けさ、穏やかさはちょっと違和感がある。世界がもし終わるなら、ルールになんて従う必要はないはずだからだ。思うにこれに理由は二つある。
一つ、世界の終わりにはある程度長い期間があるため、暴徒化するには暇がありすぎる。当たり前だが狂騒には莫大なエネルギーが必要である。半年間以上暴徒と化すのは難しい。
一つ、作者のネヴィル・シュートが意識的にそういった部分を書いていない。実は地の文で暴徒化している人々と荒廃した町に対しては言及がある。ただ登場人物たちは郊外か、軍の建物に入ることがほとんどなので争いに巻き込まれることが少ない。
個人的には後者の作者がそういったものを書きたくなかったからだと思う。そういうのを受け付けないというのではない。シュートは人間というもののその尊厳を描きたかったのである。それが明日終わる世界でも消えることのない火のようなその誇り高さ、そして暖かさを描きたかったのではなかろうか。良い歳になってくるとわかるものだがかっこい死に様とはイコールかっこいい生き様に他ならない。おそらく「渚にて」の世界でも大半の人はカッコ悪く生き、カッコ悪く死んだのだろう。その中でも人間らしくいきそして死んでいく人を書いたのがこの作品に他ならない。作中の暖かさ、それは終わっていく世界でとても稀有で難しい。そしてその希望もやがて潰えていく。私たちは自分を死なないと思っているが、登場人物たちも放射能の南下はひょっとしたら止まるのでは、自分たちは世界の破滅を生き残れるのではと思っている。しかし無情にも放射能の拡散は止まるということがなさそうである。戦争を始めたのは私たちではないのに、なぜ私たちは死なないといけないのか?大きすぎる力に伴うリスクがこの言葉に集約されている。
人間は自己保存の原則に従って生きている。子供をなすのは第一にしても、その他何かしら自分の生きた証を残したいのが人間である。しかし誰も残らないことが確定している世界で一体何かを残すことに意味はあるのだろうか。または「人生はクソで全く意味がない」というのはよく聞くフレーズだが、それではなぜそう言うあなた(または私)は自殺しないのだろうか?
世界の終わりは人類を含む全生物の絶滅だ。それは美しいかもしれないが、実際には美にはなり得ないだろう。なぜなら人類が絶滅した時点で完全な世界の終わりを観測できることができなくなるからだ。世界の終わりがそこに近づいているのにおままごとをするかの様に振る舞う人々、その姿を指差して滑稽だと笑えるだろうか。そこには諸行無常の残酷さがある。私たちは最低限、もしくは最大限生きることしかできない。ある意味最強の極限状態で一体私たちの生がなんなのか?と問いかけるのがこの小説では。

Thee Michelle Gun Elephantには「Girl Friend」と言う曲がある。活動の終わり頃にリリースされた曲で、チバ語とも評される比較的その指すところが判然としない歌詞が多いこのバンドでは珍しくメッセージ性が強く、そして真っ当なラブソングである。争いと暴力に満ちた世界をくだらないとこき下ろす一方で天国すらも唾棄する、ただ君といたいと言うその歌詞はある種前述の「世界の終わり」と対をなす曲なのだが、なんとなくこの小説にはこちらの曲の方があっている様な気がする。ちなみに私はどちらの曲も大好きである。

核という巨大な力と愚かな人類という最悪の組み合わせの恐怖を描くという意味でも広く読んでほしい小説だと思うが(つまりネヴィル・シュートの怒りに満ちた、そして静かな警告でもあるわけだ)、もっと普遍的にあなたのその生はどんなものなのか?と問いかけてくる、そこがいちばんの魅力だと思った。ぜひ、ぜひ読んでいただきたい一冊。

2016年11月19日土曜日

Grief/Come to Grief

アメリカはマサチューセッツ州ボストンのスラッジコアバンドの2ndアルバム。
オリジナルは1994年にCentury Media Recordsからリリースされた。私が買ったのはWillowtip Recordsから2010年に再販されたものでボーナストラックが1曲追加されている。1991年に結成され5枚のオリジナルアルバムと何枚かのスプリット音源をリリースしたのち2001年に解散。その後再結成されたもののやはり解散している。スラッジ界隈では有名なバンドなのだろうが、音源がことごとく廃盤なので私はSouthern Lord Recordingsからリリースされた編集版「Turbulent Times」しか持っていない。確実にKhanateに影響を与えてであろう凄まじいトーチャー・スラッジが展開されており、全編通して聴くにはかなりしんどいのだが大変癖になる。「Depression」の長いイントロが終わったと思ったらさらに地獄でしたみたいな展開が大好き。Amazonでなんとなく検索したら普通に売っていたので購入した次第。

「Turbulent Times」がおしゃれな装丁なのに対してこちらは「ぼくのかんがえたさいきょうのじごく」的な世界観が表現されており、Iron Monkeyのアートワークを思わせるいやらしさ。嫌な予感しかしないが、果たして再生ボタンを押した瞬間、ノイズにまみれたスラッジーなイントロが撒き散らされる。叩きのめされた様に不自然に伸びたリフと引きずる様なフィードバックノイズが不快だ。たまらん。歪んだソロが展開されて悲鳴の様だ。やっとイントロが終わったかと思うとJeff Haywardの苦痛に満ちたボーカルが入る。ここでこのアルバムには救いがないとわかる。この人の様に歌うボーカルはちょっと思いつかない。フレーズごとに力が入りすぎて心配になってくる。ひどい二日酔いの時吐きまくっても楽にならず、便器を握りしめて無理やりげえげえ唸っている様な、そんな類の必死さと辛さがある。「Earthworm」は自尊心ゼロのボーカルが「俺はミミズにとってもよく似ている 俺をたち割ってくれ 俺は生まれ変わる」(ミミズを切断すると両方動いているところから来ているのだろう)と歌い上げる。Griefは悲嘆という意味だ。ここには失望と厭世観とそしてその中で育まれる憎悪がある。おおよそ嫉妬にまみれた見当違いのものであるかもしれない。光り輝く健康な世界で生きている人たちからしたらいわれのない、理解のできない感情だとしてもある特定の人たちにとっては共感できるのではなかろうか。喧嘩に負けたとか、麻薬にどっぷりとか、半分はあっているが本質的には自己嫌悪だったり自分の不甲斐なさに対する苛立ち、生来劣った自分という不公平に対する怒り、転じて他者への攻撃性と厭世観になっている様な気がする。だからこの文脈でいう攻撃的というのは、他者と自分に対しての二面性があって、トーチャーなのに気持ち良いというのは実はそこにその理由があるのかもしれない。
こうやって書くともう聞くのも苦痛でマニアックな音楽という印象を持たれてしまうかもしれないし、実際そんな一面もあるのだが(はじめの2曲はかなり酷い、私は2曲めの「Hate Grows Stronger」が好きすぎる)、実はこのアルバム後半にいくにつれて結構聴きやすくなる。ある程度早いパートが導入されているからだ。ドゥームのヴィンテージロックからの影響を割とストレートにスラッジなりに解釈したグルーヴィなリフも飛び出して来てかなり乗れる。

Eyehategodに代表される様にスラッジというとやっぱりこうダーティなイメージがある。私は酒もあまり飲めないのでそういった危険性とは無縁だが(Eyehategodはもちろん好きだけど)、Griefはもっと懐が広くてダメ人間の普遍的な感情を歌っていると思う。そういった意味では過激な音楽性に耐性があれば(ここがまああんまりいないんだろうけど)結構聴きやすいのではなかろうか。何かしらこの切実さがきっと胸に突き刺さるはずだと思う。やっぱりかっこいい。「明日は良い日だ」という歌に励まされない人はぜひどうぞ。非常にかっこいい。おすすめ。

Neurosis/Fires Within Fires

アメリカはカリフォルニア州オークランドのポストメタルバンドの11thアルバム。
2016年に自分たちのレーベルNeurot Recorddingsからリリースされた。
1985年に結成された当初は速いハードコアを演奏していたが3枚目のアルバムあたりからその音楽性をスローかつヘヴィなものに変容させ、ハードコアを基調としながらドゥームメタルとは異なったアプローチでスローな音楽を構築し、ヘヴィなバンドアンサンブルに民族的な要素を持ち込み、さらに激しさだけでなくアンビエントなパートを大胆に取り入れたその音楽は後続のバンドに多大な影響を与えた。いわばメジャーストリームに対するアンダーグラウンドな音楽におけるカリスマ的存在で、結成から30年以上たった今でもコンスタントに音源をリリースし続けている。私はTVKのかの名作テレビ番組「ビデオ星人」でNeurosisのライブ映像を見たのが初めての出会いで、当時中学生だった自分の範疇の外にあるその音楽性にやや気持ちが悪くすらなった。Neurosisはなんか知らんがヤバい…そんなトラウマ的なわだかまりを抱え続け、それから初めてNurosis音源を買ったのは大学生の頃だったろうか。熱心なファンというわけではないが、いくつかの音源を聴いたことがある。

前作「Honor Found In Decay」は2012年発表だったから4年ぶりの新作ということになる。個人的には前作は正直なところ悪い!とは言わないがやっぱり買ってから何周か聴いたっきりあまり聞き返さない音源であった。良さを発見するまで聴き込めていないというのも大いにあるだろうが、聞き返そうかなと思う前に「Times of Grace」や「The Sun That Never Sets」の方を聞いてしまうのだ。
今作もだから「どうかな〜」という好きなバンドだけに何かしら怖い様な、そんな気持ちで購入した。
全5曲で40分だから彼らの音源の中では割とコンパクトにまとまっている方ではなかろうか。プロデューサーはSteve Albiniでこれは最近の作品からの続投。
やや分離が悪くモコっとした音質は「Times of Grace」にちょっと似ているかなと思った。おっかなびっくり聞いていると、あれこれは正直悪くない(上から目線で嫌な言い方なんだけど)、むしろかなり良いのでは…と思っている。前作と比べてどこが違うのかというのをだら〜っと書いていくと…
前作は長い尺の中で淡々と進む感じでやや抑揚にかけていたが、一方今作では静と動のパートのメリハリがくっきりついている。持ち味復活という感じ。
さらにそのメリハリの中の動のパートの攻撃性が増している。Neurosisといえば見るからにおっかない面体のおじさん3人がそれぞれに怒号を張り上げるトリプルボーカルスタイルが魅力の一つだが、今作ではオラオラオラ〜とばかりに良く叫んでいる。複数人がボーカルをとるので声質にも差異があって良い。演奏は正直前述の超名作アルバムに比べるとあのアグレッションは経年でやや枯れたものになっているが、前作に比べると音の数は増えているのではないだろうか。メリハリを活かしたドゥーミィなリフを巧みな技術で綺麗に伸ばしてくる様なスタイルとハードコア的にグルグル弾きまくるスタイルを良い配分で混ぜてきている。個人的にはやはり後者の演奏に魅力を感じるし、盛り上がっているところにさらにワウをかけてきて混沌が増してくると、いよいよ楽しくなってくる。このごった煮感が良い。
それからNeurosisの静のパートは結構好きだ。激しさの爆発の前の待機時間以上に魅力がある。それはこれからの激動の予兆を孕む緊張した時間であることも魅力の一つだと思う。今作ではここで結構メロディアスに歌ってきて、さらにハーモニー、コーラスを入れてきて結構力を入れている。もともと激しいけどただがなるだけでなく歌心があるバンドだと思うので、ここに力を入れてくれるのは嬉しい。最終曲「Reach」は結構それが顕著で「Stones From Sky」を思わせる。

期待と不安でおっかなびっくり再生すると冒頭の「Bending Light」でおおおおお?と引っ張られてあとは巨大な乾燥機で放り込まれた様に轟音にもみくちゃにされる。終盤は激しい中にも物悲しさを出してきて、ただならぬ経験からくる風格を感じさせる。自らの魅力と原点を再認識したかの様などっしりとした佇まいで大御所らしからぬ攻撃性も出してきた。とてもかっこいいと思う。正直昨今のはどうかな…と思っている人がどれくらいいるのか知らないが(みんな全然良いよ、と思っているかもしれないな)、今作は往年のNeurosisを彷彿とさせる内容なので是非効いてみてほしい。もちろんおすすめ。

シャーリイ・ジャクスン/くじ

アメリカの女性作家の短編小説集。
この間紹介したフレドリック・ブラウンの「さあ、気ちがいになりなさい」と同じく異色作家短編集として刊行されたものの文庫版。
シャーリイ・ジャクスンと言ったら長編「ずっとお城で暮らしてる」も有名だが、何と言っても「くじ」という短編だろうと思う。ホラーが好きな人なら多分ほとんどが読んだことあるのではなかろうか。そのくらい色んなホラーアンソロジーに収録されている。私もはっきり覚えているわけではないが、多分少なくとも手持ちの別のアンソロジー二冊にはこの短編が収録されていると思う。
ホラーといっても色んなサブジャンルがあるし、結果的には多様な物語があるが、シャーリイ・ジャクスンのこの短編集ではフリクースが出てくるスラッシャーでも、幽霊が出てくるしっとりしたゴーストストーリーでもない。ただし全く超自然的でないというとそうではなくて、あとがきを読むまで気がつかなかったのだが主人公たちを現実の裏側に連れていくという役目で共通した悪魔の役割を振られた男が出てくる。ただし彼も牙が生えているわけでも、蹄があるわけでも、もちろん角があるわけでもない。
ジャクスンは日常を描く。日常に起こる些細な出来事を書く(表題作の「くじ」のように設定から非日常のものもあるが、それでも日常が描かれている)。主人公である女性たちはそこで嫌な目にあい、また時にははたから見ると嫌なことは起こっていない様でもあるが、それでも結果的には嫌な気分を味わう。作品によってはこれがそれでも「嫌な1日」で終わることもある、しかし作品によっては主人公たちの感情は致命的に害され、その後以前と同じ様に日常が送れなくなっているであろうことが示唆される。端的言えば狂気に陥ったといっても良いかもしれない。日常が、正気がグラデーションの様にいろをかえて毒に侵されていく。その色調の変容のどこをとって分岐点とするかというのは面白い問題だと思う。また狂気に陥った後も続く、主人公を除いた世界の日常の白々しさがまた恐ろしいのである。そういった意味では都市生活の中にある孤立を象徴的に描いている、と考えることもできるのではあるまいか。

シャーリイ・ジャクスンの好きなところの一つに感情をテーマとしている、というか感情を書くことが目的とすら思わせるのに、その筆致は客観的で登場人物のむしろ肉体的な動きにフォーカスされていくこと。こうやってしっとりというよりはねっとり陰湿な雰囲気なのに突き放した冷徹さがあって、それがむしろ読み手を感情的にさせる。つまり主人公たちの感情がそのままイコール読み手の感情になったかの様に錯覚させる。つまり物語自体が呪文であって、それが主人公たちの味わう不快な感情を読み手に与える、そんな効果を持っている。小説の醍醐味とも言える人間の感情が最終的に読者の手に委ねられている。だから同じ物語を読んでも読み手が受ける不快な感情は実は千差万別ではなかろうか。私たちが過去経験した嫌なことをまざまざと思い出し、当然それらは人によって違うので私たちはそれぞれ嫌な思いを個別に味わことになるのだ。

人によってはなぜ金を払ってこの様な後味の悪い本で嫌な気分にならないといけないのかと怒るだろうが、確実にそういった毒に当てられることに気持ち良さを見出す人間がいるものである。無神経でなくて後味が悪いのがご馳走なのだ。というわけで特定の趣味を持った悪食の皆様は必携の一冊であると思う。是非書店に走ってどうぞ。大変面白く、そして嫌な気持ちになれること請け合いです。非常にオススメ!!

Planes Mistaken For Stars/Prey

アメリカはイリノイ州ピオリアのポストハードコアバンドの4thアルバム。
2016年にDeathwish Inc.よりリリースされた。
1997年に結成され3枚のオリジナルアルバム他いくつかの音源をリリースしたが、2008年に活動を休止。その2年後に再結成を行い、さらに6年という年月を経てリリースされたのがこの音源。私この音源で初めて聞く。レーベルからのメールで興味を持ち購入。「星に間違えられる飛行機」ということで要するに「夜に飛ぶ飛行機」というバンド名はある種のセンチメンタリズムを温度のない名詞で表現するスタイルでとてもかっこいい。生と死が渾然となったアートワークも結構異色なのでは。

Googleで検索してみると日本語のページがあまりヒットしないのでややマイナーなのかもしれない。Diskunionでははっきり「激情」というワードで紹介されている。
激情というと言葉通りにほとばしる感情を攻撃的で(時に複雑な)演奏と叫び(時に会えてのつぶやき)に乗せて打ち出す温度と湿度の高い音楽というイメージがあるし、実際この間激情とは?という動機で聞いたEbullition Recordsの3枚のアルバムは確かに前述のような言葉である程度起き萎える音楽性だったが、このバンドはちょっとその定義と違ってきている。いわば激情ハードコアのオルタナティブ(もう一つの)可能性なのかもしれない。まずボーカルが叫ばない。別に叫べば激情でハードコアというわけではないが、この手のジャンルにしては一見あまり熱量がない。気取ったり、声を過剰に作っているわけでも、すかしているわけではない。ただこういうスタイルだというのだと思う。歌声自体はHigh On FireのMatt Pikeに似ている。掠れて、しゃがれている。経年と外的要因(酒やタバコ)によるダメージがむしろ独特の味を出しているタイプ。この声で歌われるとちょっとずるいくらいに説得力が出てくるわけだ。渋みがあるのでなるほど、叫ばない方が良いな〜という気にさせるし、また一方で平時がフラットだから強弱(呟いたり、叫んだり)が曲の中で目立ちやすくなるという特性もある。
演奏自体は明確にハードコアを経由したロックサウンドを鳴らしており、必ずしも技術を前面に押し出さないやり方で曲もシンプルかつ短い。アコースティックギターとピアノを効果的に用いた曲もあるが、基本的にはバンドアンサンブルのみで余計な音は追加しない。素材自体の音が程よく残されたジャギジャギしたギターがコード感溢れるリフを引っ張っていくのだが、たまに入るハードコア的だったり、ソロだったりがメロウなフレーズに富んでいて、一見さっぱりした外見の中には濃厚な旨味がぎっしり的な魅力が詰まっている。演奏とボーカル(が歌うメロディ)が程よいメロディアスで聞けば聞くほど耳に馴染んでくるのも良い。
ある種のタガが外れたような狂騒を含む1曲め「Dimentia Americana」から幕をあけるのだが、実は全編にわたってグルーミィな雰囲気が底流となって作品を貫いている。リリース前に公開された4曲め「Fucking Tenderness」は彼らの魅力がぎゅっと詰まった曲だが、キラキラした演奏とメロディアスさの中に垣間見える後ろを振り返るような切なさは隠しきれない。

無駄を削ぎ落としたコンパクトな楽曲ながらまぎれもない激情を感じ取れる良いアルバム。かっこいい、そして少し切ない、そんなロックが好きな人も是非どうぞ。

2016年11月17日木曜日

VMO/Catastrophic Anonymous

日本は大阪を中心に活動するブラックメタルバンドの1stアルバム。
2016年に日本のVirgin Babylon Recordsからリリースされた。
私はオフィシャルでカセットとCDがバンドルされたセットを購入。
VMOとはViolent Magic Orchestraの略。大阪の音楽集団Vampilliaのメンバーを中心に、
エレクトロニクス担当としてPete Swanson、MIX、シンセ、ビート担当としてExtreme Precautionsを迎え、さらにライブヴィジュアル担当のkezzardrixで構成されたバンド。
もともとVampilliaのリーダーであるStartracks for Streetdreamsさん(ちなみに楽器は全然弾けないんだそうだ、本当面白いしすごい)はブラックメタルに強い思い入れがあってそれがVampilliaの音にも色濃く現れていた。Vampilliaはブラックメタルプラスポストロックトいうコンセプトだが、VMOはブラックメタルは同じでもそこにテクノ・インダストリアルの要素を加えているそうだ。アートもコンセプトの一つであってそれゆえライブでのビジュアル担当や3台のストロボライトを用いているのだと思う。

なんとなくブラックメタル成分が濃いVampilliaかと思っていたのだが、実際の音を聞いてみると結構印象が違う。本当にVampilliaからポスト感を引いて、代わりにインダストリアル成分を足したというのがうまい説明だと思う。ポスト感にも色々あると思うが例えばブラックメタルだったらAlcest、激情ハードコアならenvyみたいにある種の(芸術的な)美しさみたいなのが自分のイメージ。確かにおふざけもするVampilliaだが「Endless Summer」に代表されるように激しさと切ない美しさが同居する曲をいくつも作っている。VMOではある種の余裕すら感じさせる贅沢なポスト感はなりを潜めている。全10曲で34分、コンパクトにまとめられた曲はどれも割れるような轟音で埋め尽くされている。嵐のようなトレモロリフはまさしくブラックメタルからの影響色濃いがプリミティブな儚さを感じさせるそれではなく、強靭で硬質な金属を生成したような主張の強い重たい存在感を放っている。そもそも空隙など見当たらないところに重たいドラムがさらに隙間なく並べられ、モコモコしたベースがみっちりと空間を黒く埋めていく。そこに金属質な高温のパーカッションが加わる。エレクトロニックと言わずに、テクノもしくはインダストリアルというのも、またなるほどと思わせる。力技である。
結果的に出来上がった音はAlcestなどに代表されるポストブラックメタル達に比べるとあからさまに主張が強すぎるしうるさすぎるし、かといってブルータルかつモダンなブラックメタルに比べると今度はやはりキラキラしている。バランス感覚が絶妙というのもあるだろうが、ありそうでなかったこの音の秘密はやはり”アート”なのかもしれない。というのも結構音を聴いていると面白いことに気づく。まず2曲目「Acts of Charity」に代表されるように轟音インダストリアルに半ば塗りつぶされているが、それでもやはりトレモロリフの言いようもないメロディアスさは隠しきれない。このメロディセンスはVampilliaで培った経験が活かされていると思う。そういった意味ではピアノの使用頻度もそれなりにあり、またそれらが硬質で容赦のない轟音に程よくセンチメンタリズムを持ちむことに一役買っている。またボーカルの登場頻度が実はあまり多くない。ボーカルはThe BodyのChip KingやMayhemのAttilaという強烈なゲストに加え、Vampilliaの面々が強烈な叫び声を披露している。クリーンはほぼ皆無でのどの枯れるような絶叫のオンパレードだが、実は終始それらが登場しているわけではない。むしろ結構演奏に力を入れていて、それを効果的に披露することを念頭に置いているような印象がある。ピアノだったり、演奏を前面に押し出すのはポスト感なんじゃねえの?という意見もあるだろうが、やはり個人的にはポスト感というにはそれらに特有の美しさが顧みられていない。美しさを凶暴さに無理やり覆い被せたような趣があって、所々不器用なアンドロイドのようになっているのだが、はっきり言えばそれが魅力なのだ。その言いようのない不恰好さがVMOの”アート”ではなかろうか。まだ名前のつかない不恰好さ、私はこの音源がかなり気に入っている。ひょっとして広く受け入れられたこのスタイルに名前をつけられ、新しいかっこよさになったらとても面白いなと思う。

コンパクトだが非常に挑戦的な音楽だと思う。軸になるブラックメタルに期待しているところがぶれていないからだろうと思うが、凶暴かつメロディアスでVampilliaが好きな人ならこのプロジェクトも楽しく聴けると思う。おすすめ。

2016年11月6日日曜日

The Dillinger Escape Plan/Dissociation

アメリカ合衆国ニュージャージー州モリスのマスコアバンドの6thアルバム。
2016年に自身のレーベルParty Smasherからリリースされた。
TDEPは1997年に結成されメンバーチェンジを繰り返しつつも、今までに5枚のアルバムを発表。6枚目のこのアルバムをリリースするタイミングでバンド側はアルバムの発売に伴うツアーの終了とともにバンドは解散することを明言しておりこのアルバムが最終作になる見込み。

一昔前にネット上で「私を構成する9枚」が流行り、私もチャレンジと思ったが思いの外絞るのがむずくしくて頓挫した。4枚は確実でそのうちの一枚がTDEPの2nd「Miss Maschine」。
ニューメタル小僧だった私が「カオティック・ハードコア」という言葉のかっこよさをきっかけに出会ったのがこのアルバムだった。今では大好きだが当時は声がニガテでConvergeを敬遠したため、TDEPが新しい音楽への扉になった。明らかにハードコアであるConvergeに対して、TDEPはカオティックのもう一つの可能性であり、メロディアスなパートを包括することで入門編としては最適だったのだろう。

TDEPは技巧によって自由を獲得したバンドだ。
ギターソロ、トレモロ、テクニカルなリフワーク、異常な速度で叩かれるドラム、人間外にはみ出すがごとくのスクリーム、ことエクストリームな音楽では超絶技巧を始めテクを極めることで先鋭化していくが、
このバンドはむしろ技巧で持って早くて強いハードコアの枠から逸脱、もしくはジャンルの幅自体を広げている。(フォロワーを生み出すほどの影響力があることを考えると個人的には後者を推したい。)
曲の速度が早くなくても良い(今作は中速くらいの曲が多い)、弦楽は低音に偏光し、重たいリフを引かなくても良い、クリーンボイスでメロディを歌っても良い、多様な表現力はむしろハードコアの可能性を広げていった。
終わりよければではないが、最終的にハードコアでまとめあげればよしなのだ。なるほどTDEPにジャズの要素があってもTDEPをジャズバンドだという人は少ないだろう。
マスコア、またはカオティック・ハードコアという文脈で「とっ散らかった」と表現される音源はこの最新作で最終作と言われる「Dissociation」でその要素を色濃く取り戻した。
前作、全前作では良くも悪くもまとまりが良い印象の楽曲がおおく並んだが、今作では曲中でのカオス度が上がっている。
曲間での展開が複雑であること、その展開がスムーズである一方頻度は増加し、混乱の度合いを強めている。
nine inch nailsに影響を受け、非常にエレクトロニックかつメロディアスなサイドプロジェクトThe Black QueenをスタートさせたGregはやはり良いボーカリストだ。
メンバーは変わっているもののテクノモーツアルトの異名を取るAphex Twinの人力カバーを披露しているくらい正確に複雑なバンドアンサンブルはともすると非人間的だが、
Gregのボーカリゼーションは吐き出す声の種類がクリーン/スクリームという二択以上に表現力が豊かだ。一つの曲の中で病的にその声色を変えていくGregは非常に人間的で感情的なカオスを作り出している。
前任ボーカリストのDimitriもハードコア的では非常に力強かったが、全方向的に混沌を広げていくバンドの方向性的にはGregに軍配が上がるのではなかろうか。
有機的なカオスと無機的なカオスがぶつかりあった火花が、爆発がTDEPというバンドなのだ。
異常なテンションで破裂する豊かな音色はさながら打ち上げ花火の乱発であって、黒いハードコアの夜空に打ち上がる花火に私たちは魅せられた。
最終曲「Dissociation」は全編非常にメロディアスでまさに終焉に相応しい落下しながら消え行く花火の残り火に感じられる。
幕が閉じた後、四囲に立ち込める火薬の匂いを嗅ぎながら私達の視線は地上に降りてくる。残るのは切なさだ。祭りは終わった。私たちは日常に帰っていくが、その胸には花火の残影が焼き付いている。私は密かに拍手するだろう。ありがとうTDEP。

Various Artists/GHz Junglism

日本のレコードショップ/レーベルのGHz監修のジャングルのコンピレーション。
2016年にGHzからリリースされた。
GHz/MHz界隈はもともとブレイクコア色強目ということで注目していたのだが、漫画「ドロヘドロ」のサントラをリリースしたり(内容も大変よろしかった)と色々面白いことをやっている。そんなレーベルのコンピレーションなら絶対良いはずだろう、という気持ちで購入。まずは何と言ってもインパクトのあるジャケットに目がいってしまう。

収録曲は以下の通り。(レーベルより)
1. FFF / Junglist (2015 Rework)
2. Stazma The Junglechrist / Metalworker
3. Bizzy B / CALLING ALL THE AMEN (Bizzy B REVAMP FEAT MULTIPLEX MC)
4. madmaid / hollow in the jungle
5. FFF / Torturing Soundbwoy (Bizzy B Remix)
6. Amenbrother(DJ DON&Kekke) / Champ Road
7. Dave Skywalker / Saxon Street
知っているアーティストは辛うじてFFFのみ。
私はAphex Twinからドラムンベース/ブレイクコアに入門。学生時代は日本のRomzあたりをほんのちょっと聴いていた。ブレイクコアというのはラガに接近しているところがあって、たとえば前述のAphexなんかはあまりない(多作だから私が知らないだけという可能性は大)んだけど、Kid606とか、Bong-Raなんかは結構曲中にラガの要素をぶち込んでくるし、ブレイクコアのコンピレーション買うと必ずそのうちの何曲かはラガの要素が入っていた。私は当時この手の要素が苦手でラガいレゲエ特有の歌声が聞こえてくると「う〜む」なんて思っていたものだ。私は徹底的なマシーンの非常性と攻撃性をブレイクコアに求めていたのかもしれない。
そんなわけでジャングル再入門となるのがこのCDといってもいいかも。
どうもビートを倍速に、ベースを半分の速度にといった変則的な速度(どうも再生速度の間違いから生まれたジャンルだとか)で鳴らすというのがルールのようだが、恐らくここから実際多様な音色で発展していったジャンルなのだろう。

聴いてみるとまずはやはりそのビートの手数の多さ、速度の早さに驚く。ほぼブレイクコアで曲名にも入っている通り特にAmen Breakの登場頻度が異常に高い。あの有名なフレーズはきっと誰もが聴いたことがあると思うが、やはりテンションが上がる。分解され再構築された、または譜面に敬意を払いつつ再入力されたそれらは元のフレーズを残しつつどれも思い思いに強烈にブーストされている。めまぐるしいブレイクビートと対照的にベースは確かにピッチを落としたかように(実際にサンプリングしたものを落として使っているのかも)間延びした低音が低音部を重たい垂れ幕のように覆っている。またはアシッドのビヨビヨ分をいくらか漂白したようなブワンブワンしたもので、これがうねるようなリズム感を演出している。昔買ったサイケアウツを思い出した。
そこに軽快でプリミティブ、時にチープですらあるギター、ピアノが裏打ちのリズムも印象的にサンプリングされ、チョップされて乗ってくる。鳥の鳴き声のような高音や、モダンなダンスホールレゲエを彷彿とさせるピュンピュンした音も飛び出してくる。ここら辺がジャングル、まさに密林といった感じで、鬱蒼とした緑色のビートの森の中にけばけばしい色をした鳥類や珍獣のような異音が飛び出してくる。この唐突さと、そしてそれらの異物を違和感なく包み込む懐の深い放埓さがジャングルの面白みなのかもしれない。
そしてラガいレゲエボーカル。独特のしゃがれ声、力が入っているようで抜けているテンションはしかし確実にこちらのテンションを上げてくるから不思議である。こちらも程よくピッチが変えられていてマシーンメイドさが垣間見得る。さながら電子化されたサイボーグ・グルといった感じで怪しいことこの上ない。

テクノの面白さの一つに機械的なのに感情的という逆説的な楽しさがあると思うけど、このジャングルという音楽は高速ブレイクビートという非人間的な要素を使いつつも、血の通ったレゲエの要素を大胆に取り込むことでさらにさらに感情的で有機的だ。
気づくと暗い音楽ばかり増えがちな自分としては非常にこういった音源は稀有で楽しい。会社で聴くとテンション上がって個人的にはとても好きだ。
インパクトありすぎなジャケットに驚くが、中身は紛れもなく素晴らしいです。非常にオススメなので普段は暗い音楽ばっか聴いているメタラーの方も是非どうぞ。

フレドリック・ブラウン/さあ、気ちがいになりなさい

アメリカの作家の短編小説。
もともと単行本で同じ早川から出版されている異色作家短編集というシリーズの一冊でなんとなく気になっていたものを今回文庫本になったタイミングで買ってみた。
翻訳しているのはショート・ショートSFの分野で活躍した星新一さん。本は読まないけど星新一さんだけなら、という人は結構いるらしいと聞いたが本当だろうか?私は一冊しか読んだことがない。多分NHKで映像化された「おーい」のやつが一番印象に残っている。
さて黒とピンクの想定が大変おしゃれかっこいいこの本、何と言ってもタイトルが良い。原題は「Come and go mad」で、それを「さあ、気ちがいになりなさい」と訳すセンスよ。高圧的な「さあ、気ちがいになれ」でも、怪しい同調圧力のある「さあ、気ちがいになろう」でもなく「さあ、気ちがいになりなさい」なのだ。優しさと、そして無言の圧力がある。思わず頼もしいその一言に身を委ねて気ちがいになりたくなるではないか。そうだこんな世の中自体が気ちがいなのだ。そこでは気ちがいになるのが気持ちよく暮らせる唯一の方法なのだ。俺も気ちがい、お前も気ちがいなんだア、アハハハハ、とそんな安逸とした危険な雰囲気を醸し出している。

収録されている12個の短編はどれも”ひねくれて”いるという形容詞が合うのではなかろうか。例えば同じ作家が同じテーマと設定で書いてもこうはなるまい、という一風変わった作品に仕上がっており、そこにこのフレデリック・ブラウンという作家の色を見ることができる。それはつまりあえて人が興ざめすることをニヤリとした笑みを浮かべ、訥々としかしはっきりと述べるようなそんなニヒルとまでは言わないが天邪鬼めいた毒がある。
表題作にもなった狂気というのは全編通じて、つまり作家のテーマなのかもしれないが、ではフレデリック・ブラウンの書く狂気とは一体何か、というとこれはを単なるドロップアウトとして捉えていないことにそのヒントがあるように思う。ざっくりいうと正気の危うさと環境適応としての狂気である。一番わかりやすいのは冒頭の「みどりの星へ」だろうか。主人公の(無意識の)選択はそれをやらないと一人取り残された異星で生きることができなかったことに他ならない。続く「ぶっそうなやつら」は幾ら何でも小心かつそれゆえ暴力ではなかろうか?と思う人もいるかもしれないが、やはりあの孤立した待合室、という環境に放り込まれれば特別臆病な私は同じような思考に陥ることは間違いない。私の場合は臆病ゆえに待合室から逃げ出しただろうが。少し趣向が変わって「電獣ヴァヴェリ」は正気を疑う物語。これはとある理由から電気が使えなくなった世界で文明が退化してしまうのだが、意外にも人間たちはそんな原始的な環境にあっという間に適応してしまう。物語の後半の主人公たちは電気が動かす社会にいた頃よりはるかにゆとりがあり、そして幸せそうである。文明批判であることは間違いないが、やはり普通を疑ってかかるというブラウンの怜悧な視点があるように思う。そしてやはりあるものでなんとかする、という人間のたくましさも(=人間賛歌)も書いている。文明批判といえば「町を求む」で野心的なギャングが手中に収めやすい町について一席ぶっているがそれは誰もが投票に行かない町である。まさにいまの日本ではないか。ひょっとしたいまの日本もならず者につけこまれているのかもしれない。これが発表されたのは1940年だということが驚きだ。人はいつの時代も変わらないのか、それともブラウンが非常に明晰な頭を持っていたのか。
「帽子の手品」では明らかに異常な状況を見たのにそれを許容できずに黙殺する人の心理が書かれている。これは狂気に対応できない正気を描いている物語と捉えることもできる。そして一番ボリュームがある表題作「さあ、気ちがいになりなさい」では自分の正気に疑いのある主人公が狂気に陥っていく。彼は自分で疑うように統合失調症患者なのか、それとも謎の「明るく輝けるもの」によって真理を知らされた故に狂気に陥ったのか。

あくまでも平明な文体で描かれる狂気、その筆致と視点は常に冷静なので観察するように狂気を楽しめるだろう。タイトルはぶっそうだが、楽しめること請け合いの黒い本。是非どうぞ。

2016年10月31日月曜日

(音楽という)趣味にかかるコスト

10月末日。
昼休みにシェーキーズに行くことに。ピザ食べ放題のあの店行くのは学生時代ぶりだ。量で満足する店だが味もそれなりに美味しいと思う。気楽な舌でよかった。

一緒に行った上司は元バンドマンで今も音楽が趣味。
寝る間を削って管楽器に熱中している。
新しい楽器が欲しいのだけどやってる人口が少ない管楽器はかなりの値段がするものだ。
「ちょっと趣味にしては高くないすかね」と尻込みする私に上司はいう
「音楽好きだよね?ちょっとざっと計算してみ?」
私の持っている曲をiTunesで調べると14,751曲、
そのうち1割は友人から借りたものだとして自分で買ったのは13,276曲、
難しいが1アルバム10曲収録だとして(グラインド系とドゥーム系には隔たりがあるだろうが)、アルバムにすると1,328枚、
1枚の単価を2,000円にしようか、正直デジタルで買うことが増えた最近も加味するともう少しやすい気もするがレコードも買うし、
これでなんと総額2,655,180円。
すごい適当な計算だし、実際にはライブに行ったり、レコ屋行くまでの交通費だったり音楽につぎ込んだお金でいうと確実に300万は超えてきそう。
上司の欲しい楽器が余裕で何本か買える。
タバコを吸わなきゃベンツが買えますよ、の小話が思い浮かぶ。
私は純粋に楽しむためにお金を使い、満足しているわけだから、別にこれから先も音楽にお金を払い続けるのだろう。
ただなんとなく音楽を消費者として楽しむ、というのはお手頃な趣味なのかと思っていたからシェーキーズに奇声が響くくらい驚いた。

趣味は楽しみを追求するものだからコスパを求めたってあまり意味はない。逆に金のかかる趣味が面白いわけでもない。
「人生に楽しみなんてございませんよ」という顔で実は人は結構自分の楽しみにお金を払っているのだろう、というのが上司と私の意見だ。
ただ家計簿はつけた方がいいな、と満腹のピザによる寝ぼけ眼で思った。
明日から11月。

GUEVNNA/HEART OF EVIL

日本は東京のロックバンドの1stアルバム。
2016年に3LAことLongLegsLongArms Recordsから発売された。
バンド名は「ゲヴンナ」と読む。2011年にIron MonkeyとBongzillaが好きな人という条件でメンバーが召集されて結成。その後EPやスプリット音源をリリースしてからの今回のフルアルバム。私はこの音源を聴くのが初めて。
とにかくこのペキンパーのインタビューを読んでいただくとこのバンドの大体のことがわかるのではなかろうか。非常に面白くまた手っ取り早くバンドの情報を得ることができる。
非常にこだわりを持ったバンドでデジタル販売はやらない。現物のアートワークや装丁には非常に強いこだわりがあるが、歌詞は非公開。その代わりに曲ごとのイメージを外部のアーティストに描いてもらっているというちょっと尋常じゃなさ。曲があってからのアートワークだからこれは販売物として考えたときは時間もお金もかかりすぎるのでは?と思う。3LAはデジタルにも着手しつつ現物にもこだわり続けるレーベルで、限定マーチやライブとの連動などデジタルとアナログ双方を活かしつついろいろなことをやっている印象があるので、そういった意味では単にやっている音楽以上にミュージシャンとレーベル側でシンパシーがあったのだろうなと思わせる。今作のアートワークは北海道のANÜSTESが担当。カバーアートに加えて全8曲分のバラバラの!正方形の厚紙(素材にもこだわったに違いない)にびっしりと印刷されている。ガリガリした筆致で描かれて直線と曲線に対象が美しくも病的だ。いわゆるアウトサイダーアートっぽい暴力的(で時に会えての稚拙な)なアートを掲げた前述のスラッジバンドに通じるところと、そことは明確に違うところ双方が伺えて面白い。都市の絵が印象的で、退廃的(伝統的)でありつつも密閉感というよりは広がりがある(革新的)イメージ。私はせっかくだからポスターも買ったんだけどこれも非常にかっこ良い。飾りたいので額欲しい。
音の方もそういったアートワークにあっていて、伝統的なスラッジに敬意を払いつつも独自のスタイルで音を鳴らしている。

前述のインタビューではもう「ドゥームやスラッジじゃない」と明確に言い切ってしまっている通りIron MonkeyとBongzillaというスタート地点を考えると結構アウトプットのイメージに驚く。スラッジといったら完全にアウトサイダーで病的でアルコールとタバコと違法薬物に汚染され、アメリカ南部の泥濘のようにズルズルしており、歌詞は暴力と死と厭世観に支配されているイメージが強く、音の方もそんな世界感を反映してか如何にもこうにも暴力的で暗くて、首を絞められるような閉塞感に満ちている。GUEVNNAに関していえば低音が強調された(そんなに低音強調していないといっているが普通のバンドからしたらやっぱよくでてる方だと思う。)音でゆったりめの速度はなるほどスラッジ的だが、どちらかというと伸びやかなリフや饒舌なソロを繰り出してくるギターはロックンロール的だ。ストーナーなんかは明確にヴィンテージなロックと近似性があると思うけど、そんな印象が強い。グルーヴィで首だけでなく腰が揺れるリズム感。隙間が意識されている音作りだと思っており、音圧に関しても低音を強調しつつも物理的な壁のような力自慢さはないし、演奏もスラッジ故の贅沢な時間の使い方をしており音の密度は程よいレベルでだから聞いているこちらとしては呼吸がしやすい。常に気を張っていないといけないバンドも大好きだが、どこか弛緩して聞けるバンドも好きだ。スラッジというかなり特殊なジャンルでこういった視点でやるというのはなかなか珍しいのでは。
陽性のスラッジというとあまり具体的なバンド名が出てこないが、近しいストーナーというジャンルでQueens of the Stone Ageが思い浮かぶけど、しゃがれ声で喚くボーカルもあってかそこまでのメジャー感やQOSTAの最近のおしゃれな感じもないかな。(便利な言葉だけど)新しい可能性という意味ではオルタナティブなスラッジという感じだろうか。レーベルその他では「アーバン」という形容詞で持って語られているみたい。
タイトルトラックの「Heart of Evil」はとにかくかっこよくて4つ打ちのイントロがこれから何か楽しいことがはじめるよ、という期待感に満ちていて良い。ちょっと怪しい何か、というアングラ感がある。あとは速度に緩急があって疾走感が楽しめる「Daybringer」が好き。
伝統的なスラッジが好きな人はこのジャンルの新しい可能性を知ることができると思うし、楽しいロックが好きな人も是非どうぞ。オススメ。

2016年10月30日日曜日

Kid Spatula/Full Sunken Breaks

イギリスのロンドンはウィンブルドンのテクノアーティストの2ndアルバム。
2000年にPlanet Mu Recordsからリリースされた。
Kid SpatulaはMike Paradinasの変名。ParadinasといえばPlanet Muの総帥。Aphex Twinとのコラボアルバムなんかもリリースしている。私は高校生くらいの時にAphex Twinを入り口にテクノ、ブレイクコア寄りのIDMをちょっと聴き始めたんだけど、当時の2chなんかで入門編の一枚としてParadinasの変名の一つで多分一番有名なのかな?μ-ziqの「Lunatic Harness」が挙げられており、多分タワレコかHMVで買ったことがある。今でも1曲目「Brace Yourself Jason」のイントロを聞くと当時を思い出したりする。いいアルバムだったけど当時Paradinasは掘り下げなかった。(Planet Muのコンピは一枚買ったんだけど。)Kid Spatulaは当時購読していたアフタヌーンに載っていた「孤陋」という読み切りにその名前が出てきたのを覚えている。やはり昔の記憶。
何と無く思い出してふとした気持ちで調べてみたらBandcampで公開されていたので、得たり!とばかりに購入。

「完全水没ブレイク」と名付けられた今作はParadinasらしさに溢れている。ブレイクというのはブレイクビーツ〜ブレイクコアを指しているのだろうか。ほぼほぼ全編にわたり複雑かつて数の多いドラムンベースを一歩進めたビートが曲の根幹を成している。さすがに当時のAphexのドリルンってほどではなくて、そういった意味では変態的ではないのだが、あの時のいわゆるコーンウォール一派の音なのだろうか、結構特徴的な音で構成されている。ノスタルジーを刺激されるのはもちろん、やはりこの手の音は好きなのを再確認できる。
ブレイクコアということでビートがやたら主張してくる。とはいえメロディ性は曲によっては強く前面に押し出されている。Kid Spatula名義とμ-ziqの違いに関していえばそこらへんで、後者は割とセンチメンタルかつ繊細なのにキャッチーなメロディ成分が強めなのに対して、こちらはそれらがやや希薄でよりテクノ的でより実験的だ。曲にも結構幅があってそこらへんも面白い。言い忘れたがこのアルバムは全20曲で再生時間は1時間10分とかなりのボリューム。
一番頻度が多いのは、ブレイクビーツ、もしくはブレイクコアのビートに楽しくもちょっと内省的な(フロアというよりはナードっぽい感じ、そもそも音の数が多いので(フロアで聞けばかっこいいに違いないが)わかりやすいフロア向けの音楽ではないのだが。)メロディが乗る。メロディというよりはフレーズといった方がいいくらいの濃度で、曲によってはその上物が綺麗なピアノだったり、ギュワンぶよんとしたアシッドサウンドだったり、チョップして整形したハーシュノイズ(同じコーンウォール一派のSquarepusherもノイズに関しては思い入れがあるみたいで複数の音源で色々な使い方をしていたはず)だったりで、おもちゃ箱を引っ繰り返したような多彩さと楽しさがある。ブレイクを基調とした音実験室といった趣すらあるなという感じ。「水没した」という形容詞は面白くてまたしっくりくる。くぐもったようなフィルター(歪みだったり、空間的だったり、アシッドだったり)を通した音は確かに水没と例えても良いかもしれない。(ひょっとしてSunkenには全然違った意味やスラング的な意図があるのかもだけど。)ちょっと”捻くれている”という感じでやはり界隈の音といった感じ。ジャズっぽさだったり、生音らしさはあまり感じられず、やや憂いのあるメロディという意味ではSquarepsuherよりはAphex Twinに似ているところがあるが、こちらの方が音の種類的にとっつきやすいというか、ビートは別として上に乗る音はどれも丸みを帯びた角のないものなので、可愛いという形容詞がくっついてもいいし、耳に心地よい。(ハーシュノイズも使うんだけどそれは別として。)全体的にゆったりとしたドリーミィな雰囲気が漂っており、同じ一派でもそれぞれ際立った個性を発揮して共通項を持ちつつもかなり異なった音楽を作っていたのだな、と妙に感心してしまった。

Apex Twinも最近元気だし、そこら辺気になるな〜という人は是非どうぞ。

東雅夫編/世界幻想文学大全 幻想小説真髄

アンソロジストの東雅夫さんが世界の幻想文学の定番作品をまとめるシリーズ。この間紹介した「怪奇小説精華」と対をなすのがこちらで、東さん曰く幻想文学というのは「ホラー(怪奇)」と「ファンタジー(幻想)」の両極があってグラデーションをなしつつ色々な作品がせめぎあっているのですよ(ただし両極は対角線上にあるのではなく、メビウスの輪っかのごとくぐるっとどこまでも繋がっているのだそうな)とのことで、こちらはそのファンタジーに接近した作品を集めたもの。
私は幻想文学といっても大体ホラー寄りの作品ばかり読んでいるので、幻想文学というと実はよくわからない。「ハリーポッター」シリーズも読んだことないし、ファンタジー界に燦然と輝く「指輪物語」も映画しか見たいことない(「ホビットの冒険」は読んだ。)。最近山尾悠子さんやボルヘスの作品をポツポツ読んだくらい。あとは個人的には澁澤龍彦さんの「高岳親王航海記」が一番印象に残っているかな〜というくらい。あとはラブクラフトに多大な影響を与えたということから読んだロード・ダンセイニの一連の作品群だろうか。ホラーは怖がらせればなんでもあり的な裾の広さがあって例えば「悪魔のいけにえ」だったり映像作品と結びついて広く人々に愛されている(けど反面俗化して本来の意味というのは拡散しているのかもしれませんね)けど、なんとなくファンタジーというと格式高いイメージがあってそこまで市民権を得ていないのかなという気がする。ファンタジーというと個人的にはやっぱり剣と魔法の世界?という固定観念をイマイチ払拭仕切れていない感じ。そんな俗な固定観念に毒されている私なので密かに期待感を持って読んだのがこの本。そういったいみではどれも名作と名高い短編を集めたこのアンソロジーは大変嬉しい。
何回かこのブログでも書いているが澁澤龍彦さんが幻想というと曖昧に書けばいいと思っている人が多いけど違うからね、と仰ったそうで扱っている世界は現実離れしていてもそれを正確に描写しないと面白い物語にならないというのは確かで、この本には不思議な物語が詰まっているわけで、中には本当に半分覚えていない夢のように説明がつかない模糊としたものもあるわけでそういった意味では多様な作品が集められているのだけど共通してどれもその物語の核となる”不思議”ははっきりとした言葉で綴られている。それが豪華絢爛で華美、仰々しくも流麗なものもあれば、そっけない語り口でそれゆえ”リアル”に感じられるものもある。ミステリーというジャンルではわかりやすいがこの謎というのはとにかく昔から人間の好奇心というのを大いにくすぐってきていて、センスオブワンダーってやつは大航海時代、そして広大無限なはるか星の世界つまり宇宙に人間を駆り立てていったわけ。そんな不思議な謎がキラキラと、または見るからに不気味に輝くのが幻想文学。いろいろな謎が提示されているものの、ファンタジーのジャンルではそれがわかりやすい因果関係で持って解き明かされることは少なくそれが受け入れられるか否かがひょっとしたらそのままこのジャンルに対するハードルになっているのかもしれない。
「怪奇小説精華」も文体は絢爛なものが多かったが、こちらの方がその傾向が強い気がした。というのも非現実を扱うにはそういった舞台装置が必要になるからだと思っている。いわば呪文みたいなものでこの独特の言い回しが読み手を幻想の世界に導いていくのだ。恐怖に頼らないファンタジーに関してはさらに強い呪文が必要になってくるのかもしれない。煌めきを写し取ろうとするにはどうしてもそのような言葉が必要になってくるのかもしれない。

冴えない主人公が恋とそして冒険に巻き込まれるE・T・A・ホフマンの中編「黄金宝壺」はまさに幻想文学の一大絵巻といった様相を呈しており、人間の想像力の限界に挑むかのような視覚的な表現がどっぷりと夢の世界に浸らせてくれる。同じ恋を主眼に据えながらも全く逆の死の世界に舵をとったゴシックロマン調のヴィリエ・ど・リラダンの「ヴェラ」も恐ろしく儚く、正気と狂気の境にある美を描いている。擬人化された夜の描写はたった4行ながらこのジャンルの魅力を濃縮したようで胸を打った。
一方絢爛な美の世界と正反対に力強くも無愛想な文体で書かれたアンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」。これは再読になったがやはり悪夢としか言いようがない。これは日常の先にある”もしも”の世界で持ってそういった意味ではホラー色も濃い。
同じくアーサー・マッケンの「白魔」も再読だったがやはり良い。ケルトの謎が峻厳で渺茫とした英国の野生の景色に溶け込んでいる。ページをめくるだけでそんな世界にトリップできる。

600ページ超というボリュームで幻想の世界にどっぷり浸ることができる。やたらと残酷趣味な幻想に疲れた人は是非どうぞ。また日常に倦んでどこか遠いところに想いを馳せる人も是非どうぞ。

2016年10月22日土曜日

S・クレイグ・ザラー/ノース・ガンソン・ストリートの虐殺

アメリカの作家による警察小説。
なんとなくAmazonにオススメされた買って見た。帯には「ブッ殺す!」と書かれていて期待感を煽ってくる。
作者のS・クレイグ・ザラーは多彩な人で小説家の他に脚本家としても活躍し、なんとその前にはブラックメタルバンドでドラムを叩いていたらしい。(ライターの済藤鉄腸さんのブログより。)

黒人の警察官、ジュールズ・ベティンガーはアリゾナ州の警察署に勤務する刑事。とても優秀なのだがとある事件により実質左遷されてしまう。転勤先はミズーリ州ヴィクトリー。南部に位置するアリゾナに比べると厳しく寒い田舎町で治安は最悪。広大なスラム街が広がり、一部は荒廃し切って実質無法地帯である。18歳から45歳までの住人の7割に犯罪歴がある。着任早々ひどく暴行され殺された女性の事件を担当するが、相棒も含めて所内の警察官にはどうも後ろ暗いことがあるらしく、ベティンガーに敵意を見せる。そんな中で署内の警察官が襲撃され殺される事件が発生、ヴィクトリーは暴力と死に満ちた危険地帯におちいっていく。

警察小説といってもミステリー的な要素はほぼない。徹底的な陰惨な暴力が描かれる。そういった意味ではノワール成分もあるのだが、例えばジェイムズ・エルロイのように権謀術数渦巻く中で垣間見える間違った男の美学的な要素は一切なし。ジム・トンプスンの暴力の背後にある圧倒的な虚無もなし。もう暴力と差別と悪意しかない。短絡的で表層的だし、あえていうなら低俗ですらある。こうやって書くと救いがないのだが、よりエンターテインメントとしてはわかりやすく、だから純粋に楽しみやすい。まるで石炭のような燃焼材でこれを摂取すると主人公ベティンガーと同じく怒りと破壊衝動で体がカッカしてくる。といっても緩急がつけられていてカタルシスというかヴィクトリーという町の状況が地獄の様相を呈してくるまでをスピーディかつ段階的に書いているから、ストーリーが進むにつれてどんどん引き込まれていく。
なにせ冒頭からホームレスを拷問するのだが、腐って崩れかけている鳩の死骸をその口に無理やり突っ込むのだから酷い。溶けた目玉が喉に落ちてくる、鳩の尖った足が舌を裂いて血が出るといった具合で突っ込まれているホームレス同様こっちも吐き気がしてくる。暴力というのは殴って殴られてそれで終わりというわけではない。殴られた方は痛いし、他人に恐怖を感じるだろう。酷い暴力を受けたら以前と同じように暮らすことができなくなることだって十二分ありえる。そういった意味では暴力というのは二重にひどいものだ。この小説では殴られた方に感情面でどんなことが起こりえるかということに関してもほぼほぼその極北のようなものを描いている。暴力はエンターテインメントだが「ひで〜」と浮かべた薄ら笑いが凍りつくような。そういった意味では決して暴力賛美の小説ではないだろう。この手法でしか書けない暴力の側面が書かれていると思う。
露悪的でやりすぎ感は否めないが、変に知的ぶったりカッコつけないところ、それから熱く陰惨な展開だが、描写は非常に淡々として冷徹であること(それ故ひどく痛そうだったり、辛そうだったりする)、登場人物の感情の揺れ動きを些細とも言える行動によって書いていること(これは個人的に非常に好きなんだ)などを鑑みると良く書けているという以上に非常に真摯に描かれている。少なくとも暴力を切って貼り付けた軽薄なものではない。低俗趣味を全力でやっているのであって、そういった意味では非常に(デス)メタル的な真面目さを感じる。
肉体的・精神的なゴア表現が好きな人は是非どうぞ。私はあっという間に読んでしまった。レオナルド・ディカプリオ氏が映画化するそうな。

Mouth of the Architect/Path of Eight

アメリカ合衆国オハイオ州デントンのポストメタルバンドの5thアルバム。
2016年にTranslation Loss Recordsからリリースされた。
2013年の「Dawning」から3年ぶりの新作。
2003年に結成されたバンドで私は2008年の3rdアルバム「Quietly」を買って以来のファン。ジャケット通りの灰色の世界のスラッジっぷりにすっかりまいってしまいそれから新作が出るたびに買って聴いている。wikiを見るに前作からの編成のアップデートとしてギター/ボーカルが脱退し、新しいメンバーが加入しているようだ。

「八の小道」と名付けられた今作はその名の通り8つの曲が収録されている。まず驚いたのが曲の長さ。一番長くて7分20秒。アルバムを通して44分だから1曲あたりだいたい5分ちょい。まあ普通のバンドならだいたいこんなもんだと思うのだが、このバンドはスラッジとポストメタル地でいくスタイルなのだ。むしろ短いくらいだろう。過去の音源でもだいたい平均すると10分いかないくらいではなかろうか。明確にコンパクト化している。
偉大な先達であるNeurosisに影響を受けつつも荘厳な密室的さを排し知的なポスト感を強め、強大な音圧で圧殺リフを奏でながら、ただただ暴力性に舵をとるのではない、まさに灰色な世界観を構築しているバンドでアートっぽさもありつつ、同時に激しい痒い所に手が届くイメージ。
今作では短くした尺で曲をスッキリさせてきたが、速度は変わらないし、たとえばアンビエントなパートなどは相変わらず贅沢に時間をとって披露しているので単純にもともとバンドの持っていた音像をより濃密に仕上げてきた印象。異なる層を一つの曲にまとめてくる多重構造は相変わらずで、クリーントーンのギターのアルペジオや空間的なシンセ音と地を揺るがす轟音のアンサンブルの対比、クリーンボーカルとスラッジ/ハードコア色の強い男臭い咆哮(複数のメンバーが兼任しているのでボーカルにも色があってそこも良い。やっぱりNeurosisっぽい。)の対比に加えて女性のボーカルを大胆にフィーチャーしている。アンビエントという成分はありつつも、形式としてたジャンルを貪欲に取り込んでいくというよりは、ポスト/スラッジでの限界を探る、という観点で曲が作られており、異相がありつつも曲としてまとまりがあり、どの部分を切って聴いてもかっこよく統一感がある。
尺だけでなく、ややキラキラしたようなギターなどは灰色の世界に色彩を持ち込む鮮やかさがあり、埃っぽいスラッジという意味ではたまにMastodonを彷彿とさせる。クリーンボーカルもここぞという時には明快なメロディをたどるようになり、轟音との対比と明暗はっきりとしつつも複雑な曲構造いう意味ではThe Oceanっぽくなったと思う。これらの変化の兆しは前作「Dawning」からの延長線上にあって、前作聞いたときにはMouth of the aArchitectが明るくなった!とだいぶ驚いたことを思い出した。今作はさらにその報告性が強められ、そしてクオリティが上がってきた。1曲目「Ritual Bell」に見られるような東洋(の宗教)っぽいリフやフレーズは健在で知的な個性を生かしつつも、ジャケットアートの深紅のように灰色の世界に色が持ち込まれた。それも揺籃期の地球のように荒々しいもので、これから何か新しい生命が生まれるような強烈なエネルギーが混沌と渦巻いているような感じだ。

これは化けたな〜という感じ。ただひたすら虚無的な「Quietly」に見せられた身としては正直そちらに後ろ髪引かれることも事実。過去を顧みない前傾姿勢に敬意を払いつつこれはもう両方楽しむのが正解であろうと思う!!というわけで非常にカッコ良い!のでオススメ!!でございます。

The Kilimanjaro Darkjazz Ensemble/Mutations

オランダはユトレヒトのダークジャズバンドのEP。
2009年にAd Noiseamからリリースされた。私はこのバンドが好きでいくつか音源を持っているのだが、すでに解散済みということもあってなかなか集めるのが大変。2016年にドイツのDenovali Recordsから再発されるということで購入した。手っ取り早く聞きたかったのでデジタル版を購入したが、CDでもアナログでもカセットでも良いのでマテリアルで欲しくなっている。

中心メンバーにBong-Raとしてブレイクコアのジャンルで活躍するJason Kohnenがいる。彼はベースとプログラミングを担当しているようだ。もともと彼きっかけでこのバンドを知ったんだっけな。もうおぼえていないが。このバンドにはブレイクコアらしさは皆無。バンド名がその音楽をよく表現しているが、暗いジャズを演奏するバンド。どのくらい暗いのかというと、ジャズといっても色々あるのだろうが、私の頭に浮かぶのは即興要素の強い、ドラム、ベース、ピアノ、あとはトランペットなどの管楽器でかなり激しくも楽しい音楽というイメージがあるけど、このバンドに関しては楽器のメンツというスタートラインは確かにジャズなのだろうが、その音の出し方は全然違う。全てが抑えられていて、静かだ。速度も極めてゆっくりしているし、曲によってはドラムがリズムを作っていなかったりする。ジャズというと踊れたりするイメージだけど、全然踊れる感じはしない。わかりやすく派手なメロディラインもない。オシャレというにはだいぶ陰鬱すぎる。内にこもったような音楽で、個人的には夜霧のようだ。明け方近くに足元にふわふわと巻きついてくる。思わず驚いて足をぶらぶら振ってしまうような小さい驚きと、それから別にじっとしててもいいじゃんととわかってリラックスする感じ。足を止めて目を閉じる。そうしていくと霧がその存在感を増していき、目を閉じている間にすっっぽりと全身を包んでしまっているような、そんな感じの音楽だ。暗い音楽というとメタルやハードコアなどの音楽だとその苛烈な攻撃性で持って「俺VSオマエ」という対立構造になってどんどん陰惨になっていくが(そういうの大好き)、このバンドは内向きにゆっくり沈んでいく、まさにダウンワードスパイラル。ninはひたすら自己嫌悪に落ち込んでいったのだが、こちらはもっとナチュラルだ。自然現象をバンドアンサンブルで持って写し取ろう試みにも感じられる。暗いというのはつまりその写しにかかるフィルターのようなものかもしれない。
Bong-Raらしさというわけではないが、比較的人造的なビートがオーガニックな上物と混じり合う2曲目「Munchen」。そしてラスト「Avian Lung」は「Seneca」(私が一番好きな曲)の別バージョンで初めて聞いたときは本当テンション上がってしまった。こちらは歌が排除されているのだが、その分曲自体の良さを存分に楽しむことができる。

儚いが非常に饒舌な音楽だ。ただそれを日常的な言葉で翻訳するのが大変難しい。あなたの気持ちを文字にすることは非常に困難だが、だからと言って存在しないわけではない。そういった意味では非常に感情的だ。今作も本当かっこいい。是非どうぞ。

アーサー・C・クラーク/都市と星[新訳版]

イギリスの作家によるSF小説。
原題は「The City and The Stars」で1956年に発表された。私が買ったのは2009年に装丁を変更した新訳版。オシャレっぽい表紙に惹かれて購入。題名のフォントがかっこいいんだよね。

遠い未来人類はついに銀河に進出し、その栄華を極めた。しかし謎の「侵略者」が出現し、人類はその版図を大きく縮めることになった。全土がほぼ砂漠と化した古い故郷地球に閉じこもり、広い宇宙から退くことで「侵略者」から安全をあがなったのだった。地球上唯一の完全都市ダイアスパー。無限の生を獲得した人類はその楽園で疑問を持つことなく暮らしていた。ダイアスパーの住人アルヴィンはそんな楽園に疑問を持ち、尽きることのない好奇心で都市外の世界に興味を持つがダイアスパーではその思想は異端だった。

一度栄華を極めた世界が何らかの理由で荒廃し、いわば対抗した二巡目の世界で持って原始的な生活がいとなまれている、というのはSFでは結構ありきたりの設定で、この手の物語ではたまに登場するいわゆるロストテクノロジーが荒涼とした世界に彩りを与えるのが醍醐味。私もその手の話は大好きで、この「都市と星」もそう言ったカテゴリーに入れることもできるだろうが、侵略者に脅かされて自分の意思で持って引き持ってしまった、というのは面白い。またダイアスパーに限っては終末戦争を経ているわけではないので、生活水準は現在より高く、人は1000年の生を持ちまた生まれ変わることができるので実質の不老不死が確立されている。仕事もする必要ないし、食べ物に困ることもない。犯罪も起きない。まさに楽園な訳。別に宇宙に出る必要なんかない。だった暖かい家と食べ物がある。刺激に乏しいがまあまあ楽しいこともあるし。外は砂漠しかない。こんな人造のユートピアで異端者となるのが主人公で、「一体都市の外には何があるのだろう?砂漠しかないというが本当なのかな?」という小さい好奇心から、謎に満ちた「侵略者」の正体と人類が退行に追いやられた歴史の真実を探していくいわば冒険譚であって、知的好奇心をくすぐるセンス・オブ・ワンダーに満ち満ちている。「この先には何があるのだろう?」という探究心を持って読者は主人公と一緒に完全だがどこか不自然で小さい世界から、広い広いそして無限に大きい世界に乗り出していくことになる。クラークといえばやはり「幼年期の終り」が一個の里程標的な作品であり、あちらも争いごとの絶えない地球に神のような存在であるオーバーロードが舞い降り、迷える人類を良き方向、つまりユートピアに導くという物語だった。こちらは築かれたユートピアのその後が「幼年期の終り」とはだいぶ違うように書かれている。幼年期のユートピアはその後のための一つの段階であったが、こちらではどん詰まりでこの後の成長がない。いわば死んだ世界であった。実は幽霊の歩く死都である。安逸な停滞で、死ぬのは怖いから生きているのだ。これを邪悪と言い切るのは難しいかもしれないし、ある種の成長仕切った文明の一つの到達点といっても良いかもしれない。そんな老境にある世界を若い感性が思い込みで持って変えていく、というのは非常に痛快だ。
都市の外には何が待ち受けているのかというのは実際に読んでもらうことにして、個人的には色々なギミック含めて大変楽しめた。ただ不満もあって主人公アルヴィンがちょっと完璧すぎる。ほぼほぼ無敵な存在であって、あまり迷うこともない。一応傲慢だった彼が旅を通して成長していく様も描かれているのだけど、その過程があまりに唐突すぎるので何だか読み手としてはいまいち納得感がない。正直因果に基づいた世界を無邪気に肯定するお年頃ではないのだが、どうしてもフィクションにはその手のわかりやすさを求めてしまうのかもしれない。チャレンジには失敗がつきものなのでもっとそこを書いて欲しかった。アルヴィンも育った環境でしょうがないのかもしれないが、傲慢な性格なので一つこいつの鼻っ柱を追ってくれ!という私怨めいた感情があったのかもしれぬ。若い主人公が(無敵の力で)活躍する、というとライトノベルが思い浮かんだけど私は実際ほぼこのジャンルは知らないので比較のしようがないのだが、だいぶ前に読んだパオロ・バチガルピの「シップ・ブレイカー」にちょっと似ているかな?あれは確かヤングアダルト小説だったはず。ハードな世界観に関しては「都市と星」に軍配が上がるが、人物描写は「シップ・ブレイカー」の方が好きだ。
不満はあるものの知的好奇心をばちばち刺激する圧倒的なSF世界観には非常に魅せられた。SF好きの人は是非どうぞ。