2016年10月31日月曜日

(音楽という)趣味にかかるコスト

10月末日。
昼休みにシェーキーズに行くことに。ピザ食べ放題のあの店行くのは学生時代ぶりだ。量で満足する店だが味もそれなりに美味しいと思う。気楽な舌でよかった。

一緒に行った上司は元バンドマンで今も音楽が趣味。
寝る間を削って管楽器に熱中している。
新しい楽器が欲しいのだけどやってる人口が少ない管楽器はかなりの値段がするものだ。
「ちょっと趣味にしては高くないすかね」と尻込みする私に上司はいう
「音楽好きだよね?ちょっとざっと計算してみ?」
私の持っている曲をiTunesで調べると14,751曲、
そのうち1割は友人から借りたものだとして自分で買ったのは13,276曲、
難しいが1アルバム10曲収録だとして(グラインド系とドゥーム系には隔たりがあるだろうが)、アルバムにすると1,328枚、
1枚の単価を2,000円にしようか、正直デジタルで買うことが増えた最近も加味するともう少しやすい気もするがレコードも買うし、
これでなんと総額2,655,180円。
すごい適当な計算だし、実際にはライブに行ったり、レコ屋行くまでの交通費だったり音楽につぎ込んだお金でいうと確実に300万は超えてきそう。
上司の欲しい楽器が余裕で何本か買える。
タバコを吸わなきゃベンツが買えますよ、の小話が思い浮かぶ。
私は純粋に楽しむためにお金を使い、満足しているわけだから、別にこれから先も音楽にお金を払い続けるのだろう。
ただなんとなく音楽を消費者として楽しむ、というのはお手頃な趣味なのかと思っていたからシェーキーズに奇声が響くくらい驚いた。

趣味は楽しみを追求するものだからコスパを求めたってあまり意味はない。逆に金のかかる趣味が面白いわけでもない。
「人生に楽しみなんてございませんよ」という顔で実は人は結構自分の楽しみにお金を払っているのだろう、というのが上司と私の意見だ。
ただ家計簿はつけた方がいいな、と満腹のピザによる寝ぼけ眼で思った。
明日から11月。

GUEVNNA/HEART OF EVIL

日本は東京のロックバンドの1stアルバム。
2016年に3LAことLongLegsLongArms Recordsから発売された。
バンド名は「ゲヴンナ」と読む。2011年にIron MonkeyとBongzillaが好きな人という条件でメンバーが召集されて結成。その後EPやスプリット音源をリリースしてからの今回のフルアルバム。私はこの音源を聴くのが初めて。
とにかくこのペキンパーのインタビューを読んでいただくとこのバンドの大体のことがわかるのではなかろうか。非常に面白くまた手っ取り早くバンドの情報を得ることができる。
非常にこだわりを持ったバンドでデジタル販売はやらない。現物のアートワークや装丁には非常に強いこだわりがあるが、歌詞は非公開。その代わりに曲ごとのイメージを外部のアーティストに描いてもらっているというちょっと尋常じゃなさ。曲があってからのアートワークだからこれは販売物として考えたときは時間もお金もかかりすぎるのでは?と思う。3LAはデジタルにも着手しつつ現物にもこだわり続けるレーベルで、限定マーチやライブとの連動などデジタルとアナログ双方を活かしつついろいろなことをやっている印象があるので、そういった意味では単にやっている音楽以上にミュージシャンとレーベル側でシンパシーがあったのだろうなと思わせる。今作のアートワークは北海道のANÜSTESが担当。カバーアートに加えて全8曲分のバラバラの!正方形の厚紙(素材にもこだわったに違いない)にびっしりと印刷されている。ガリガリした筆致で描かれて直線と曲線に対象が美しくも病的だ。いわゆるアウトサイダーアートっぽい暴力的(で時に会えての稚拙な)なアートを掲げた前述のスラッジバンドに通じるところと、そことは明確に違うところ双方が伺えて面白い。都市の絵が印象的で、退廃的(伝統的)でありつつも密閉感というよりは広がりがある(革新的)イメージ。私はせっかくだからポスターも買ったんだけどこれも非常にかっこ良い。飾りたいので額欲しい。
音の方もそういったアートワークにあっていて、伝統的なスラッジに敬意を払いつつも独自のスタイルで音を鳴らしている。

前述のインタビューではもう「ドゥームやスラッジじゃない」と明確に言い切ってしまっている通りIron MonkeyとBongzillaというスタート地点を考えると結構アウトプットのイメージに驚く。スラッジといったら完全にアウトサイダーで病的でアルコールとタバコと違法薬物に汚染され、アメリカ南部の泥濘のようにズルズルしており、歌詞は暴力と死と厭世観に支配されているイメージが強く、音の方もそんな世界感を反映してか如何にもこうにも暴力的で暗くて、首を絞められるような閉塞感に満ちている。GUEVNNAに関していえば低音が強調された(そんなに低音強調していないといっているが普通のバンドからしたらやっぱよくでてる方だと思う。)音でゆったりめの速度はなるほどスラッジ的だが、どちらかというと伸びやかなリフや饒舌なソロを繰り出してくるギターはロックンロール的だ。ストーナーなんかは明確にヴィンテージなロックと近似性があると思うけど、そんな印象が強い。グルーヴィで首だけでなく腰が揺れるリズム感。隙間が意識されている音作りだと思っており、音圧に関しても低音を強調しつつも物理的な壁のような力自慢さはないし、演奏もスラッジ故の贅沢な時間の使い方をしており音の密度は程よいレベルでだから聞いているこちらとしては呼吸がしやすい。常に気を張っていないといけないバンドも大好きだが、どこか弛緩して聞けるバンドも好きだ。スラッジというかなり特殊なジャンルでこういった視点でやるというのはなかなか珍しいのでは。
陽性のスラッジというとあまり具体的なバンド名が出てこないが、近しいストーナーというジャンルでQueens of the Stone Ageが思い浮かぶけど、しゃがれ声で喚くボーカルもあってかそこまでのメジャー感やQOSTAの最近のおしゃれな感じもないかな。(便利な言葉だけど)新しい可能性という意味ではオルタナティブなスラッジという感じだろうか。レーベルその他では「アーバン」という形容詞で持って語られているみたい。
タイトルトラックの「Heart of Evil」はとにかくかっこよくて4つ打ちのイントロがこれから何か楽しいことがはじめるよ、という期待感に満ちていて良い。ちょっと怪しい何か、というアングラ感がある。あとは速度に緩急があって疾走感が楽しめる「Daybringer」が好き。
伝統的なスラッジが好きな人はこのジャンルの新しい可能性を知ることができると思うし、楽しいロックが好きな人も是非どうぞ。オススメ。

2016年10月30日日曜日

Kid Spatula/Full Sunken Breaks

イギリスのロンドンはウィンブルドンのテクノアーティストの2ndアルバム。
2000年にPlanet Mu Recordsからリリースされた。
Kid SpatulaはMike Paradinasの変名。ParadinasといえばPlanet Muの総帥。Aphex Twinとのコラボアルバムなんかもリリースしている。私は高校生くらいの時にAphex Twinを入り口にテクノ、ブレイクコア寄りのIDMをちょっと聴き始めたんだけど、当時の2chなんかで入門編の一枚としてParadinasの変名の一つで多分一番有名なのかな?μ-ziqの「Lunatic Harness」が挙げられており、多分タワレコかHMVで買ったことがある。今でも1曲目「Brace Yourself Jason」のイントロを聞くと当時を思い出したりする。いいアルバムだったけど当時Paradinasは掘り下げなかった。(Planet Muのコンピは一枚買ったんだけど。)Kid Spatulaは当時購読していたアフタヌーンに載っていた「孤陋」という読み切りにその名前が出てきたのを覚えている。やはり昔の記憶。
何と無く思い出してふとした気持ちで調べてみたらBandcampで公開されていたので、得たり!とばかりに購入。

「完全水没ブレイク」と名付けられた今作はParadinasらしさに溢れている。ブレイクというのはブレイクビーツ〜ブレイクコアを指しているのだろうか。ほぼほぼ全編にわたり複雑かつて数の多いドラムンベースを一歩進めたビートが曲の根幹を成している。さすがに当時のAphexのドリルンってほどではなくて、そういった意味では変態的ではないのだが、あの時のいわゆるコーンウォール一派の音なのだろうか、結構特徴的な音で構成されている。ノスタルジーを刺激されるのはもちろん、やはりこの手の音は好きなのを再確認できる。
ブレイクコアということでビートがやたら主張してくる。とはいえメロディ性は曲によっては強く前面に押し出されている。Kid Spatula名義とμ-ziqの違いに関していえばそこらへんで、後者は割とセンチメンタルかつ繊細なのにキャッチーなメロディ成分が強めなのに対して、こちらはそれらがやや希薄でよりテクノ的でより実験的だ。曲にも結構幅があってそこらへんも面白い。言い忘れたがこのアルバムは全20曲で再生時間は1時間10分とかなりのボリューム。
一番頻度が多いのは、ブレイクビーツ、もしくはブレイクコアのビートに楽しくもちょっと内省的な(フロアというよりはナードっぽい感じ、そもそも音の数が多いので(フロアで聞けばかっこいいに違いないが)わかりやすいフロア向けの音楽ではないのだが。)メロディが乗る。メロディというよりはフレーズといった方がいいくらいの濃度で、曲によってはその上物が綺麗なピアノだったり、ギュワンぶよんとしたアシッドサウンドだったり、チョップして整形したハーシュノイズ(同じコーンウォール一派のSquarepusherもノイズに関しては思い入れがあるみたいで複数の音源で色々な使い方をしていたはず)だったりで、おもちゃ箱を引っ繰り返したような多彩さと楽しさがある。ブレイクを基調とした音実験室といった趣すらあるなという感じ。「水没した」という形容詞は面白くてまたしっくりくる。くぐもったようなフィルター(歪みだったり、空間的だったり、アシッドだったり)を通した音は確かに水没と例えても良いかもしれない。(ひょっとしてSunkenには全然違った意味やスラング的な意図があるのかもだけど。)ちょっと”捻くれている”という感じでやはり界隈の音といった感じ。ジャズっぽさだったり、生音らしさはあまり感じられず、やや憂いのあるメロディという意味ではSquarepsuherよりはAphex Twinに似ているところがあるが、こちらの方が音の種類的にとっつきやすいというか、ビートは別として上に乗る音はどれも丸みを帯びた角のないものなので、可愛いという形容詞がくっついてもいいし、耳に心地よい。(ハーシュノイズも使うんだけどそれは別として。)全体的にゆったりとしたドリーミィな雰囲気が漂っており、同じ一派でもそれぞれ際立った個性を発揮して共通項を持ちつつもかなり異なった音楽を作っていたのだな、と妙に感心してしまった。

Apex Twinも最近元気だし、そこら辺気になるな〜という人は是非どうぞ。

東雅夫編/世界幻想文学大全 幻想小説真髄

アンソロジストの東雅夫さんが世界の幻想文学の定番作品をまとめるシリーズ。この間紹介した「怪奇小説精華」と対をなすのがこちらで、東さん曰く幻想文学というのは「ホラー(怪奇)」と「ファンタジー(幻想)」の両極があってグラデーションをなしつつ色々な作品がせめぎあっているのですよ(ただし両極は対角線上にあるのではなく、メビウスの輪っかのごとくぐるっとどこまでも繋がっているのだそうな)とのことで、こちらはそのファンタジーに接近した作品を集めたもの。
私は幻想文学といっても大体ホラー寄りの作品ばかり読んでいるので、幻想文学というと実はよくわからない。「ハリーポッター」シリーズも読んだことないし、ファンタジー界に燦然と輝く「指輪物語」も映画しか見たいことない(「ホビットの冒険」は読んだ。)。最近山尾悠子さんやボルヘスの作品をポツポツ読んだくらい。あとは個人的には澁澤龍彦さんの「高岳親王航海記」が一番印象に残っているかな〜というくらい。あとはラブクラフトに多大な影響を与えたということから読んだロード・ダンセイニの一連の作品群だろうか。ホラーは怖がらせればなんでもあり的な裾の広さがあって例えば「悪魔のいけにえ」だったり映像作品と結びついて広く人々に愛されている(けど反面俗化して本来の意味というのは拡散しているのかもしれませんね)けど、なんとなくファンタジーというと格式高いイメージがあってそこまで市民権を得ていないのかなという気がする。ファンタジーというと個人的にはやっぱり剣と魔法の世界?という固定観念をイマイチ払拭仕切れていない感じ。そんな俗な固定観念に毒されている私なので密かに期待感を持って読んだのがこの本。そういったいみではどれも名作と名高い短編を集めたこのアンソロジーは大変嬉しい。
何回かこのブログでも書いているが澁澤龍彦さんが幻想というと曖昧に書けばいいと思っている人が多いけど違うからね、と仰ったそうで扱っている世界は現実離れしていてもそれを正確に描写しないと面白い物語にならないというのは確かで、この本には不思議な物語が詰まっているわけで、中には本当に半分覚えていない夢のように説明がつかない模糊としたものもあるわけでそういった意味では多様な作品が集められているのだけど共通してどれもその物語の核となる”不思議”ははっきりとした言葉で綴られている。それが豪華絢爛で華美、仰々しくも流麗なものもあれば、そっけない語り口でそれゆえ”リアル”に感じられるものもある。ミステリーというジャンルではわかりやすいがこの謎というのはとにかく昔から人間の好奇心というのを大いにくすぐってきていて、センスオブワンダーってやつは大航海時代、そして広大無限なはるか星の世界つまり宇宙に人間を駆り立てていったわけ。そんな不思議な謎がキラキラと、または見るからに不気味に輝くのが幻想文学。いろいろな謎が提示されているものの、ファンタジーのジャンルではそれがわかりやすい因果関係で持って解き明かされることは少なくそれが受け入れられるか否かがひょっとしたらそのままこのジャンルに対するハードルになっているのかもしれない。
「怪奇小説精華」も文体は絢爛なものが多かったが、こちらの方がその傾向が強い気がした。というのも非現実を扱うにはそういった舞台装置が必要になるからだと思っている。いわば呪文みたいなものでこの独特の言い回しが読み手を幻想の世界に導いていくのだ。恐怖に頼らないファンタジーに関してはさらに強い呪文が必要になってくるのかもしれない。煌めきを写し取ろうとするにはどうしてもそのような言葉が必要になってくるのかもしれない。

冴えない主人公が恋とそして冒険に巻き込まれるE・T・A・ホフマンの中編「黄金宝壺」はまさに幻想文学の一大絵巻といった様相を呈しており、人間の想像力の限界に挑むかのような視覚的な表現がどっぷりと夢の世界に浸らせてくれる。同じ恋を主眼に据えながらも全く逆の死の世界に舵をとったゴシックロマン調のヴィリエ・ど・リラダンの「ヴェラ」も恐ろしく儚く、正気と狂気の境にある美を描いている。擬人化された夜の描写はたった4行ながらこのジャンルの魅力を濃縮したようで胸を打った。
一方絢爛な美の世界と正反対に力強くも無愛想な文体で書かれたアンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」。これは再読になったがやはり悪夢としか言いようがない。これは日常の先にある”もしも”の世界で持ってそういった意味ではホラー色も濃い。
同じくアーサー・マッケンの「白魔」も再読だったがやはり良い。ケルトの謎が峻厳で渺茫とした英国の野生の景色に溶け込んでいる。ページをめくるだけでそんな世界にトリップできる。

600ページ超というボリュームで幻想の世界にどっぷり浸ることができる。やたらと残酷趣味な幻想に疲れた人は是非どうぞ。また日常に倦んでどこか遠いところに想いを馳せる人も是非どうぞ。

2016年10月22日土曜日

S・クレイグ・ザラー/ノース・ガンソン・ストリートの虐殺

アメリカの作家による警察小説。
なんとなくAmazonにオススメされた買って見た。帯には「ブッ殺す!」と書かれていて期待感を煽ってくる。
作者のS・クレイグ・ザラーは多彩な人で小説家の他に脚本家としても活躍し、なんとその前にはブラックメタルバンドでドラムを叩いていたらしい。(ライターの済藤鉄腸さんのブログより。)

黒人の警察官、ジュールズ・ベティンガーはアリゾナ州の警察署に勤務する刑事。とても優秀なのだがとある事件により実質左遷されてしまう。転勤先はミズーリ州ヴィクトリー。南部に位置するアリゾナに比べると厳しく寒い田舎町で治安は最悪。広大なスラム街が広がり、一部は荒廃し切って実質無法地帯である。18歳から45歳までの住人の7割に犯罪歴がある。着任早々ひどく暴行され殺された女性の事件を担当するが、相棒も含めて所内の警察官にはどうも後ろ暗いことがあるらしく、ベティンガーに敵意を見せる。そんな中で署内の警察官が襲撃され殺される事件が発生、ヴィクトリーは暴力と死に満ちた危険地帯におちいっていく。

警察小説といってもミステリー的な要素はほぼない。徹底的な陰惨な暴力が描かれる。そういった意味ではノワール成分もあるのだが、例えばジェイムズ・エルロイのように権謀術数渦巻く中で垣間見える間違った男の美学的な要素は一切なし。ジム・トンプスンの暴力の背後にある圧倒的な虚無もなし。もう暴力と差別と悪意しかない。短絡的で表層的だし、あえていうなら低俗ですらある。こうやって書くと救いがないのだが、よりエンターテインメントとしてはわかりやすく、だから純粋に楽しみやすい。まるで石炭のような燃焼材でこれを摂取すると主人公ベティンガーと同じく怒りと破壊衝動で体がカッカしてくる。といっても緩急がつけられていてカタルシスというかヴィクトリーという町の状況が地獄の様相を呈してくるまでをスピーディかつ段階的に書いているから、ストーリーが進むにつれてどんどん引き込まれていく。
なにせ冒頭からホームレスを拷問するのだが、腐って崩れかけている鳩の死骸をその口に無理やり突っ込むのだから酷い。溶けた目玉が喉に落ちてくる、鳩の尖った足が舌を裂いて血が出るといった具合で突っ込まれているホームレス同様こっちも吐き気がしてくる。暴力というのは殴って殴られてそれで終わりというわけではない。殴られた方は痛いし、他人に恐怖を感じるだろう。酷い暴力を受けたら以前と同じように暮らすことができなくなることだって十二分ありえる。そういった意味では暴力というのは二重にひどいものだ。この小説では殴られた方に感情面でどんなことが起こりえるかということに関してもほぼほぼその極北のようなものを描いている。暴力はエンターテインメントだが「ひで〜」と浮かべた薄ら笑いが凍りつくような。そういった意味では決して暴力賛美の小説ではないだろう。この手法でしか書けない暴力の側面が書かれていると思う。
露悪的でやりすぎ感は否めないが、変に知的ぶったりカッコつけないところ、それから熱く陰惨な展開だが、描写は非常に淡々として冷徹であること(それ故ひどく痛そうだったり、辛そうだったりする)、登場人物の感情の揺れ動きを些細とも言える行動によって書いていること(これは個人的に非常に好きなんだ)などを鑑みると良く書けているという以上に非常に真摯に描かれている。少なくとも暴力を切って貼り付けた軽薄なものではない。低俗趣味を全力でやっているのであって、そういった意味では非常に(デス)メタル的な真面目さを感じる。
肉体的・精神的なゴア表現が好きな人は是非どうぞ。私はあっという間に読んでしまった。レオナルド・ディカプリオ氏が映画化するそうな。

Mouth of the Architect/Path of Eight

アメリカ合衆国オハイオ州デントンのポストメタルバンドの5thアルバム。
2016年にTranslation Loss Recordsからリリースされた。
2013年の「Dawning」から3年ぶりの新作。
2003年に結成されたバンドで私は2008年の3rdアルバム「Quietly」を買って以来のファン。ジャケット通りの灰色の世界のスラッジっぷりにすっかりまいってしまいそれから新作が出るたびに買って聴いている。wikiを見るに前作からの編成のアップデートとしてギター/ボーカルが脱退し、新しいメンバーが加入しているようだ。

「八の小道」と名付けられた今作はその名の通り8つの曲が収録されている。まず驚いたのが曲の長さ。一番長くて7分20秒。アルバムを通して44分だから1曲あたりだいたい5分ちょい。まあ普通のバンドならだいたいこんなもんだと思うのだが、このバンドはスラッジとポストメタル地でいくスタイルなのだ。むしろ短いくらいだろう。過去の音源でもだいたい平均すると10分いかないくらいではなかろうか。明確にコンパクト化している。
偉大な先達であるNeurosisに影響を受けつつも荘厳な密室的さを排し知的なポスト感を強め、強大な音圧で圧殺リフを奏でながら、ただただ暴力性に舵をとるのではない、まさに灰色な世界観を構築しているバンドでアートっぽさもありつつ、同時に激しい痒い所に手が届くイメージ。
今作では短くした尺で曲をスッキリさせてきたが、速度は変わらないし、たとえばアンビエントなパートなどは相変わらず贅沢に時間をとって披露しているので単純にもともとバンドの持っていた音像をより濃密に仕上げてきた印象。異なる層を一つの曲にまとめてくる多重構造は相変わらずで、クリーントーンのギターのアルペジオや空間的なシンセ音と地を揺るがす轟音のアンサンブルの対比、クリーンボーカルとスラッジ/ハードコア色の強い男臭い咆哮(複数のメンバーが兼任しているのでボーカルにも色があってそこも良い。やっぱりNeurosisっぽい。)の対比に加えて女性のボーカルを大胆にフィーチャーしている。アンビエントという成分はありつつも、形式としてたジャンルを貪欲に取り込んでいくというよりは、ポスト/スラッジでの限界を探る、という観点で曲が作られており、異相がありつつも曲としてまとまりがあり、どの部分を切って聴いてもかっこよく統一感がある。
尺だけでなく、ややキラキラしたようなギターなどは灰色の世界に色彩を持ち込む鮮やかさがあり、埃っぽいスラッジという意味ではたまにMastodonを彷彿とさせる。クリーンボーカルもここぞという時には明快なメロディをたどるようになり、轟音との対比と明暗はっきりとしつつも複雑な曲構造いう意味ではThe Oceanっぽくなったと思う。これらの変化の兆しは前作「Dawning」からの延長線上にあって、前作聞いたときにはMouth of the aArchitectが明るくなった!とだいぶ驚いたことを思い出した。今作はさらにその報告性が強められ、そしてクオリティが上がってきた。1曲目「Ritual Bell」に見られるような東洋(の宗教)っぽいリフやフレーズは健在で知的な個性を生かしつつも、ジャケットアートの深紅のように灰色の世界に色が持ち込まれた。それも揺籃期の地球のように荒々しいもので、これから何か新しい生命が生まれるような強烈なエネルギーが混沌と渦巻いているような感じだ。

これは化けたな〜という感じ。ただひたすら虚無的な「Quietly」に見せられた身としては正直そちらに後ろ髪引かれることも事実。過去を顧みない前傾姿勢に敬意を払いつつこれはもう両方楽しむのが正解であろうと思う!!というわけで非常にカッコ良い!のでオススメ!!でございます。

The Kilimanjaro Darkjazz Ensemble/Mutations

オランダはユトレヒトのダークジャズバンドのEP。
2009年にAd Noiseamからリリースされた。私はこのバンドが好きでいくつか音源を持っているのだが、すでに解散済みということもあってなかなか集めるのが大変。2016年にドイツのDenovali Recordsから再発されるということで購入した。手っ取り早く聞きたかったのでデジタル版を購入したが、CDでもアナログでもカセットでも良いのでマテリアルで欲しくなっている。

中心メンバーにBong-Raとしてブレイクコアのジャンルで活躍するJason Kohnenがいる。彼はベースとプログラミングを担当しているようだ。もともと彼きっかけでこのバンドを知ったんだっけな。もうおぼえていないが。このバンドにはブレイクコアらしさは皆無。バンド名がその音楽をよく表現しているが、暗いジャズを演奏するバンド。どのくらい暗いのかというと、ジャズといっても色々あるのだろうが、私の頭に浮かぶのは即興要素の強い、ドラム、ベース、ピアノ、あとはトランペットなどの管楽器でかなり激しくも楽しい音楽というイメージがあるけど、このバンドに関しては楽器のメンツというスタートラインは確かにジャズなのだろうが、その音の出し方は全然違う。全てが抑えられていて、静かだ。速度も極めてゆっくりしているし、曲によってはドラムがリズムを作っていなかったりする。ジャズというと踊れたりするイメージだけど、全然踊れる感じはしない。わかりやすく派手なメロディラインもない。オシャレというにはだいぶ陰鬱すぎる。内にこもったような音楽で、個人的には夜霧のようだ。明け方近くに足元にふわふわと巻きついてくる。思わず驚いて足をぶらぶら振ってしまうような小さい驚きと、それから別にじっとしててもいいじゃんととわかってリラックスする感じ。足を止めて目を閉じる。そうしていくと霧がその存在感を増していき、目を閉じている間にすっっぽりと全身を包んでしまっているような、そんな感じの音楽だ。暗い音楽というとメタルやハードコアなどの音楽だとその苛烈な攻撃性で持って「俺VSオマエ」という対立構造になってどんどん陰惨になっていくが(そういうの大好き)、このバンドは内向きにゆっくり沈んでいく、まさにダウンワードスパイラル。ninはひたすら自己嫌悪に落ち込んでいったのだが、こちらはもっとナチュラルだ。自然現象をバンドアンサンブルで持って写し取ろう試みにも感じられる。暗いというのはつまりその写しにかかるフィルターのようなものかもしれない。
Bong-Raらしさというわけではないが、比較的人造的なビートがオーガニックな上物と混じり合う2曲目「Munchen」。そしてラスト「Avian Lung」は「Seneca」(私が一番好きな曲)の別バージョンで初めて聞いたときは本当テンション上がってしまった。こちらは歌が排除されているのだが、その分曲自体の良さを存分に楽しむことができる。

儚いが非常に饒舌な音楽だ。ただそれを日常的な言葉で翻訳するのが大変難しい。あなたの気持ちを文字にすることは非常に困難だが、だからと言って存在しないわけではない。そういった意味では非常に感情的だ。今作も本当かっこいい。是非どうぞ。

アーサー・C・クラーク/都市と星[新訳版]

イギリスの作家によるSF小説。
原題は「The City and The Stars」で1956年に発表された。私が買ったのは2009年に装丁を変更した新訳版。オシャレっぽい表紙に惹かれて購入。題名のフォントがかっこいいんだよね。

遠い未来人類はついに銀河に進出し、その栄華を極めた。しかし謎の「侵略者」が出現し、人類はその版図を大きく縮めることになった。全土がほぼ砂漠と化した古い故郷地球に閉じこもり、広い宇宙から退くことで「侵略者」から安全をあがなったのだった。地球上唯一の完全都市ダイアスパー。無限の生を獲得した人類はその楽園で疑問を持つことなく暮らしていた。ダイアスパーの住人アルヴィンはそんな楽園に疑問を持ち、尽きることのない好奇心で都市外の世界に興味を持つがダイアスパーではその思想は異端だった。

一度栄華を極めた世界が何らかの理由で荒廃し、いわば対抗した二巡目の世界で持って原始的な生活がいとなまれている、というのはSFでは結構ありきたりの設定で、この手の物語ではたまに登場するいわゆるロストテクノロジーが荒涼とした世界に彩りを与えるのが醍醐味。私もその手の話は大好きで、この「都市と星」もそう言ったカテゴリーに入れることもできるだろうが、侵略者に脅かされて自分の意思で持って引き持ってしまった、というのは面白い。またダイアスパーに限っては終末戦争を経ているわけではないので、生活水準は現在より高く、人は1000年の生を持ちまた生まれ変わることができるので実質の不老不死が確立されている。仕事もする必要ないし、食べ物に困ることもない。犯罪も起きない。まさに楽園な訳。別に宇宙に出る必要なんかない。だった暖かい家と食べ物がある。刺激に乏しいがまあまあ楽しいこともあるし。外は砂漠しかない。こんな人造のユートピアで異端者となるのが主人公で、「一体都市の外には何があるのだろう?砂漠しかないというが本当なのかな?」という小さい好奇心から、謎に満ちた「侵略者」の正体と人類が退行に追いやられた歴史の真実を探していくいわば冒険譚であって、知的好奇心をくすぐるセンス・オブ・ワンダーに満ち満ちている。「この先には何があるのだろう?」という探究心を持って読者は主人公と一緒に完全だがどこか不自然で小さい世界から、広い広いそして無限に大きい世界に乗り出していくことになる。クラークといえばやはり「幼年期の終り」が一個の里程標的な作品であり、あちらも争いごとの絶えない地球に神のような存在であるオーバーロードが舞い降り、迷える人類を良き方向、つまりユートピアに導くという物語だった。こちらは築かれたユートピアのその後が「幼年期の終り」とはだいぶ違うように書かれている。幼年期のユートピアはその後のための一つの段階であったが、こちらではどん詰まりでこの後の成長がない。いわば死んだ世界であった。実は幽霊の歩く死都である。安逸な停滞で、死ぬのは怖いから生きているのだ。これを邪悪と言い切るのは難しいかもしれないし、ある種の成長仕切った文明の一つの到達点といっても良いかもしれない。そんな老境にある世界を若い感性が思い込みで持って変えていく、というのは非常に痛快だ。
都市の外には何が待ち受けているのかというのは実際に読んでもらうことにして、個人的には色々なギミック含めて大変楽しめた。ただ不満もあって主人公アルヴィンがちょっと完璧すぎる。ほぼほぼ無敵な存在であって、あまり迷うこともない。一応傲慢だった彼が旅を通して成長していく様も描かれているのだけど、その過程があまりに唐突すぎるので何だか読み手としてはいまいち納得感がない。正直因果に基づいた世界を無邪気に肯定するお年頃ではないのだが、どうしてもフィクションにはその手のわかりやすさを求めてしまうのかもしれない。チャレンジには失敗がつきものなのでもっとそこを書いて欲しかった。アルヴィンも育った環境でしょうがないのかもしれないが、傲慢な性格なので一つこいつの鼻っ柱を追ってくれ!という私怨めいた感情があったのかもしれぬ。若い主人公が(無敵の力で)活躍する、というとライトノベルが思い浮かんだけど私は実際ほぼこのジャンルは知らないので比較のしようがないのだが、だいぶ前に読んだパオロ・バチガルピの「シップ・ブレイカー」にちょっと似ているかな?あれは確かヤングアダルト小説だったはず。ハードな世界観に関しては「都市と星」に軍配が上がるが、人物描写は「シップ・ブレイカー」の方が好きだ。
不満はあるものの知的好奇心をばちばち刺激する圧倒的なSF世界観には非常に魅せられた。SF好きの人は是非どうぞ。

2016年10月10日月曜日

Indian/The Unquiet Sky

アメリカはイリノイ州シカゴのスラッジ/ドゥームメタルバンドの1stアルバム。
2005年にSeventh Rule Recordingsからリリースされた。
ノイズとヘイトに満ちたスラッジを演奏するバンドで私は2ndアルバム「Guiltless」から聴き始め、3rd「From All Purity」で激はまり。後追いという感じで音源を集めていて、一応この音源でフルアルバムでは一通りそろえた事になる。2つのEPをまとめた「Slights And Abuse / The Sycophant」と一緒にレーベルに注文したのだが、なぜか「Slights And Abuse / The Sycophant」が2枚届いた。なんてこった。「おまえにはまだはやい」という事だろう。スラッジなのに速いとはどういうことだという訳でこちらは遅ればせながらデジタルで購入。バンドは非常に残念ながら解散済み、なのだが今調べたら10月11日にライブの予定がある。再結成なら感涙ものに嬉しいのだが、スケジュールにはこの1本しかないのでひょっとしたら単発の復活ライブかもしれない。そのまま再結成して欲しいものです。

汚いスラッジにハーシュノイズをのせるという単純かつ凶悪なサウンド様式はすでにこの1stから確立されており、のっけからノイズをぶちまける4分半でこの時点でろくでもない音楽をこれから聴く事になるという良い予感が漂ってくる。一体このスラッジ+ノイズという手法は昨今では例えばThe BodyやFull of Hellなんかが披露しており、それぞれ日本盤が出るくらいこの極東でも注目されている位の流行のスタイルなのだろうが、それらに先んじてやっているのがこのIndianではなかろうか。(勿論実際にはこのバンド以前、同時期にもそういったスタイルのバンドがいたのだろうが、あくどい音という意味ではやはりなかなか里程標になってしかるべきではと考えてしまうのは私のこのバンドへの愛着故だろうか。流行に乗ってビッグネームにとはならずに解散してしまっているのも報われない功労者めいてなんだか悲しい。)
五月蝿いという意味では大音量低音スラッジにひゅんひゅんごうごう唸るノイズ音をのせるというやり方は、いかにもこってりドロドロラーメンに卵とじのカツ煮をのせた様なくどさで、もういいっすよとなってしまう事もあるだろうが、このバンドの上手い事はバンドサウンドを結構シンプルにまとめてくる事だ。ドゥームというよりはかなり明確にスラッジというカテゴリーに属する音楽性も選択している事もあって、地獄のようにズルズルしているのだが例えばElectric Wizardの様なヴィンテージロックからの影響を思わせる重厚かつテクニカルなリフなんかはあまり用いず、偏差値の低い一撃の重たいリフを反復していく。そういった意味ではよくNIrvanaやSoundgardenのコピーを良くするThouに通じる”オルタナティブ感”がある。しゃがれた声で憎しみをまき散らす歌、というよりうなり声・がなり声・叫び声にまったくポップさがない反面、印象的なリフでもって(やや)親しみを増しているのかもしれない。まあでもあんまり親しみはないかな...ある種の聴きやすさと言うか人を惹き付ける音楽性といえば良いかもしれない。(それもあんまりない様な気がしてきた。)つまりこのバンドも引き算の美学で持って音を削ぎ落とし、「空いた隙間、そこに美学があるね」という小綺麗でオシャレな哲学にクソをぶちまけるように(汚くて失礼)ノイズをねじ込んでくるという底意地の悪さ。スラッジというのは何が良いってその負の感情である。停滞、そねみ、ねたみ、あえての稚拙なアートワーク(いつもIron Monkeyが真っ先に思い浮かぶ)に表現される露悪趣味、そんな底意地の悪さが魅力だろう。この駄目さが特定の人間には「大丈夫、そばにいるよ」と耳元でささやいてくるポップソングに埋めきれない心の隙間を埋めてくれるのだ。実体を伴わない(誰が俺のそばにいてくれるのだ?)同じ空虚なことばなら「せっかくなら俺はこちらを選ぶぜ」とばかりにひねこびた悪言に耳を貸すのである。全くどうかしていますよ、こいつらは。

という訳で一部の人にはバキバキ心に突き刺さる事間違い無し。大変よろしかった。この手の音が好きな人は是非。オススメ。

2016年10月9日日曜日

Trap Them/Crown Feral

アメリカはマサチューセッツ州ボストン、ワシントン州シアトルのハードコアバンドの5枚目のアルバム。
2016年にProsthetic Recordsからリリースされた。
前作「Blissfucker」から2年ぶりで私は今作と前作のみ聴いたことがある。
2001年に結成されたバンドで、バンド名は映画からとったとのこと。今作のタイトルは「野生の王冠」かな?

ジャンルとしてはクラスト・ハードコアという事になるのだと思うが、北欧デスメタル、いわゆるスウェディッシュデスメタルに影響を受けた音楽性が特徴的。調べてみると元々スウェディッシュデスメタルはハードコアパンクに親和性を持ったジャンルらしい。また特定のエフェクターを用いた独特のギター音が特徴で、勿論このTrap Themもそんな特徴を持っている。
糜爛した金属みたいな汚い音のギターはハードコアとメタルの良いとこ取りで、疾走する弾き倒すリフト刻んでくるリフを織り交ぜてくる。低音一辺倒かと思いきや良く伸びる中音〜高音フレーズやらやけっぱちな短いソロも入れてくる。
ドラムはとにかく回転が良くてどんな速度でもリズミカルにビートを刻みつつもう一音くらい足してくる印象で、ブラストやらD-ビートやらでも乾いた重量のある音で気持ちがよい。シンバルをキンキン鳴らすのも結構多くて個人的にはかなり好き。結構ドラムを追って聴いていると同じ曲中でも速度を頻繁に買えるのもそうだし色んな事をやっているのが分かる。速度を上げるにしても(ゆっくり)スタスタ、(速く)ズダダダダみたいに疾走前に印象的なフレーズを入れて来てそこがかっこいい。
曲中に速度を頻繁に買えるのはこの手のジャンルでは珍しくはないが、分かりやすく低速モッシュパートみたいのや、頭良さげなドゥームパートとかは一切無しなのも良い。徹頭徹尾ハードコアという感じで。非常に真面目でおもねらないタイプ。
攻撃的ながらどこかしらグルーミィな雰囲気があって、そこに向かって引きずられていくように引っ張られる様な暗さがあって、それがアコースティックだったり、キャラキャラした高音リフだったりに垣間見えて、ハードコアの男らしさと意外に良くあって良いと思う。
個人的には中盤の高音で歌に絡んでくるギターが印象的な2曲目「Helluionaires」とか、明快なパンキッシュリフがストレートにハードコアな9曲目「Stray of The Tongue」とかがお気に入り。

まったり濃厚なジャケットのアートワークはメタル的だが、過去作は結構ハードコア的だったりもする。アウトプット的にはやはりハードコア的な様式になっていると思うけど、メタルの要素を非常に上手く飲み込んでいるので、どちらのジャンルのファンにも訴えかける様なきがする。そういった意味では音楽的には結構違うけどConvergeにちょっと似てるかもと思った。

アンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリ/熊と踊れ

スウェーデンの作家と脚本家がタッグを組んで書いた小説。
発表されたのは2014年だが、国境を越えてヒットし帯によるとハリウッドで映画化も決まっているそうな。
作者の事は知らなかったがストーリーが気になったので購入した。

1991年工務店を営む20代の青年レオナルドは2人の実弟フェリックスとヴィンセント、さらに旧友のヤスペル、恋人のアンネリーは国軍の武器庫から大量の武器を盗み出す。強盗に使うためだ。大胆かつ鮮やかな手口で強盗を繰り返す彼らは軍人ギャングと呼ばれ国内を騒がせる事になる。刑事ヨン・ブロンクスは暴力に取り憑かれた一連の事件の捜査に乗り出すが、手がかりすらままならない。そんな彼を尻目に兄弟達は次々に強盗を繰り返していくが…

私は「ジョジョの奇妙な冒険」という漫画が好きなのだが、目下の最新シリーズ「ジョジョリオン」の冒頭にはこう書かれている「これは呪いを解く物語」。
私がこの「熊と踊れ」を読んで思ったのはこれは呪いの物語だということだ。
主人公三人の父親というのは横暴で暴力的な人物で、酒を飲んでは母親と兄弟達に日常的に暴力を振るった。そんな経験から暴力的な日常を過ごした彼らは父親と決別した後は、暴力から距離を置いて生活していた。ところが長兄レオに限ってはそうではなく、虎視眈々と暴力を”上手く”扱って自由に生きようとしていた。軍隊に入りより組織的、かつ系統だった暴力を学び、おまけに爆弾をくすねて帰って来たレオは自前の工務店を立ち上げ、表向きには真面目に働きつつ、計画を練っていた。ここで面白いのはレオは惨めな自分の過去を清算するとか、しあわせに生きている奴らに復讐するとかそういった動機では動いていない。レオは父親を始め理不尽な世界から外れて自分たちのルールで生きる事を夢みており、というより志向しており実際にその実現のために必要な金を強盗で獲得しようと考えている点だ。彼は父親を通して暴力というものの、それをふるう人とふるわれた人がどう考え、どう振る舞うか、そして暴力で何が獲得できるかという事を経験的に知っている訳だから、それを道具として使ってやろう、とこう考えた。実際レオの軸はぶれず、必要以上の暴力は一切ふるわない。強盗の成功に気を良くするヤスペルと弟達に目立つ事を慎むようにきつく戒めるが、仲間を家族と考え、彼らに対しては信頼を何よりの行動規範とする。完全に暴力をコントロールできている、そんなレオに驚嘆の目を向けるのは兄弟ら仲間たちだけではないだろう、読者もそうだ。この鮮やかな、スタイリッシュといっても良い犯罪のシーンがまずこの本の魅力の一つだと思う。
ところが後半、仲間達の結束に綻びが生まれ始める。これは本当に小さな事柄だが、薄く入った亀裂がだんだんとその存在感を増してくると、レオの完全性にも曇りが出てくる。兄弟達は思う、兄貴は暴力に取り憑かれている、自分たちの父親のように。道具にしていたはずの暴力に使われていくレオは次第に孤独になっていく。レオは一瞬天才なのは間違いないのだが(冷静な判断力と大胆な行動力を持った希有な天才)、どんな天才でも予測不能の現実の理不尽さには太刀打ちすら出来ないのかもしれない。個人的にはこういった現実の無常さ、変な言い方だと馬鹿の束に天才は絶対負ける運命にあるといった無常さが個人的にはとても好きだ。結局レオは暴力という呪いにとらわれてしまった。一体この呪いが父親のちによるものなのか、それとも誰も巻き込むそれにレオが侮り近づきすぎたのかは分からないが。フェリックスとヴィンセントは距離を置いたのに対して、レオはとらわれてしまった。
面白かったのは何と言っても長兄レオのキャラクターで冷徹に行動するが、ありがちな安易なサイコパスでは全くない。兄弟を始めとする仲間達に対しては並々ならぬ愛情があり、またときにロジカルでない行動をとるこもある。(強盗中に弾痕で笑い顔をつくったり。)レオは血の通った人間であり、自分で思っている以上、というか家族では母親に継いで間違いなく一番に父親の暴力と歪んだ愛情にさらされていて、実はその心はボロボロになっている。かたくなであるという事は鉄の様な強さだが、同時に弱点でもあった。天才であるレオには同等の存在がいなかったので、その心中はしずかにそしてずっと子供のときから壊れたままだったのかもしれない。
一つ言うとするなら、追う側である刑事ヨン・ブロンクスに関してはイマイチ感情移入できなかったかな。こちらも家族の問題を抱えているのだが、意図的に(続編があるとのことでそちらが当初から意識されていたのかも)ぼやかされているし、本人も冷めたキャラを徹底していてあまり胸の内を吐露しないもので、兄弟達に比べるとちょっとそこまで…とは思ってしまった。
ちなみにこの本は実際の事件をモチーフにしている、とは書いてあるのだが後書きを読むと作者の一人ステファン・トゥンベリはなんと兄弟の一人だったと言う。実際には4兄弟だったわけだ。勿論ステファンは強盗には参加していない。これにはちょっとビックリした。ほぼ事実じゃん。

2冊で余裕で1000ページを越えてくる大作だが、あっという間に読める。ヘレンハルメ美穂さんの訳もばっちりで大変読みやすい。北欧の冷たい大地に間違った激情とそれが引き起こす暴力が吹き荒れる大作。なにより殴る側だけでなく殴られる側の気持ちにページを割いているのが個人的には非常に良かった。そういった意味では優しさにも富んでいると思う。面白いです。オススメ。

2016年10月2日日曜日

GEZAN/NEVER END ROLL

日本の大阪で結成され今は東京を活動拠点としているロックバンドの3rdアルバム。
2016年に自身のレーベル十三月の甲虫(じゅうさんがつのむし)からリリースされた。
バンド名はローマ字でGEZANで表記されるようになっている。
私はこのバンドの前作「凸」を持っていて、これはこういうバンドだ!と中々とらえる事が出来ていない感じはあったんだけど曲は好きで結構聴いていたので今作もなんとなーく買ってみた。
どうも7年在籍したドラマーのシャーク安江さんが脱退するようだ、ふーんくらいの気持ちだった。

全体的に青で統一されたアートワークが印象的。なんとなく聴いてみたんだけどこれがすごかった。始めは正直むむ?あんまり、と思ってしまった。ところが変だなと思って2回、遅くても3回聴いたらこのアルバムのすごさにあっという間に取り込まれてしまった。前作も良かったけど「凸」よりこちらの方が好きだと思う。
なんでむむ?と思ったかというと、たった一作しか聴いてない身分であれだが、何となくGEZANというのは勢いに任せた若く青臭いバンドでブラックメタルバンドもはだしで逃げ出す様なノイジーなトレモロリフが前面に出た、とにかく元気のよい音楽を演奏しているバンドというイメージだったんだけど、今作は結構作風が違う。まず五月蝿さという意味では明らかに減退している。曲の速度もそうだろう、速度は遅くなっている。その代わりに非常にメロディラインが前に出てくる。要するにバックの演奏が大人しくなり、歌が強調されているため、(五月蝿ければ良い音楽だろ?という)私的にはあらら?と思ったわけ。良いところ全部消えている?勿論そんな事はなかった。彼らを象徴するノイジーなギターは曲の色んな部分で生きている。音量は下がって使用頻度も落ちたがその分圧倒的に単発での効果は上がっている。いわば武器の種類が一つで使い方も単一的だった前作から、その使い方に圧倒的にバリエーションが増えたし、武器自体も増えているイメージ。思い出してほしいのだが、「八月のメフィスと」も顕著にそうだったが、元々メロディに関しては非常に重視しそれに富んでいた訳だから、今作でギターが一歩下がった事でそれが目立ちだしたのはいわば当然なのだ。彼らは立ち位置を調整した訳であって、決して日和ってその方向性を変えた訳ではない。このアルバムはシャーク安江さんが抜けると決めた後に作られたらしい。そういった意味では非常に切実なアルバムなのだが、シリアスさはあるものの非常に前向きになってキラキラしているから、なんだかすごい。前向きに言う方が大概後ろ向き名ことを言うより難しいから、そんな重みを感じる。
前作であったラップみたいな、ニューメタルっぽいようなユーモアを取り込んだ派手な曲、ちょっと生意気で煽る様な歌詞はもう見られなかった。(歌詞に関しては攻撃的でなくなったという意味では勿論ない。相変わらず挑戦的、そう挑戦的だ。)それは青臭かった奴らが丸くなったという意味で大人になった、という訳では全然ない。むしろピュアにそして素直になったんだと思う。歌詞を見てほしいんだけど、煙に巻く様な難解さは無くなり、曲によってはもう完全にラブソングだが、やはり独特の言葉で選ばれたそれらはむしろしっくり心に刺さってくる。

聴いている音楽の種類もあってあんまり歌詞カードを見るという事も最近はなかったんだけど、この音源は曲を聴きながら歌詞カードを見るのが楽しい。
私は一個反省があって前作の感想に「彼らは青春パンクの変形なのか?」という様な事を書いたのだけど、結局見た目というか第一印象(「思い出はただの死体」と言い切るその過激さをただ若さで片付けてしまった)でしか判断できなかった。彼らは青い青い青春をテーマにしている。その青春というのは若い人だけのものなのか?彼らは今ドラマーを募集していて、募集要項にはこう書いてある。
「別に年齢の話じゃない。15歳でも35歳でもいい。YOUTHはそんなものでは測れない。音楽が好きで、ただ何かをかえたいそういうヤツに会えたらいい。」
違うだろ、彼らの言う青春は年齢的に若いってことじゃない。それはつまり好きな事を全力でやるってことで、負けないってことだし、きっともっと他の何かだ。私は社会人をやっているけど好きな事を全力でやるって無責任にただ楽しいだけのものだとさすがに思わないよ。

ドラマーが脱退した彼らは今活動を休止している。早くドラマーが入って、そして音楽を作ってほしいと思う。それは一体どんな風になっているか今から気になってしまうのは、ちょっと気がはやすぎか。しばらくはこのアルバムを聴けばよい。
という訳で非常にかっこ良い。なんというか物語があってそれにこちらが浮かされてしまうところがある。”青春”や”Youth”という言葉にちょっと素直に慣れない人でも是非どうぞ。

2016年10月1日土曜日

Portraits of Past/Discography

アメリカ合衆国はカリフォルニア州サンフランシスコのポストハードコアバンドのディスコグラフィー。
2008年にEbullition Recordsからリリースされた。
名盤をたどる激情ってなんだシリーズの第三弾。(一旦今回はここまで。)
Portraits of Pastは1994年に結成され、翌1995年にはもう解散している。その後再結成もあったようだが現在はやはり解散状態のようだ。(再結成後にEPをリリースしている模様。)このディコグラフィーは唯一のアルバム1996年の(だから解散後にリリースされたという事になる)「Portraits of Past」通称「01010101」(とアートワークに書いてある事からそう呼ばれている)に色々な音源を足したもので、基本的なアートワークはオリジナルアルバムを踏襲している。レーベルオーナーによると解散後に人気が出たバンドのようだ。

「昔のポートレイト」というバンド名からして既に「エモ」いのだが、その音楽性はいわゆる「スクリーモでしょ?」という現代からの一言には集約できないもやもやとした何かと言わざるを得ない。前に聴いたYaphet Kotto、Orchidが同じスクリーモにカテゴライズされながらも、そのごメインストリームに躍り出たそれらのカテゴリーとは明らかに一線を画す内容で、明らかに余計無いものが沢山ついている。悪く言えば洗練されていない(始めに言うが私はメインストリームのスクリーモより前述のバンドのならす音楽の方が好きであります。)し、余計なものが沢山ついている。曲によっては8分を越えてきて、その曲展開は例えばエモバイオレンスという言葉がぴったり来るOrchidに比べると圧倒的に複雑で速度も速いということは無い。そういう意味ではYaphet Kottoに似ているがこちらの方が凝っている。カオティックハードコアの要素も多いのだが、例えばその文脈の二大巨頭バンドConverge、The Dillinger Escape Planに比べると分かりやいハードコアの暴力性はこのバンドにはかけている。激しいという意味では勿論激しく五月蝿い音楽である事は間違いないんだが、このバンドの激しさというのは多分に内省的。
乾ききったガシャガシャしたギターがコード感にあふれたリフで引っ張っていく。疾走感のアルパートは勿論、タメのある中速パートの叙情性、つま弾かれるアルペジオの澄んだしかしマイナーな響きがある美しさはその後のポストハードコアに大きな影響を与えたのではなかろうか。かれたその単音の響きには震えるハートが見事に表現されている。ここでもやはり引き算の美学なのか、と驚愕。(7曲目Something Less Than Intendedのイントロを聴きながら。)感情的(なハードコア)というとたとえば前述のConverge、The Dillinger Escape Planのようにどうしてもマスやらポストの要素を取り込みつつも激しくコマーシャルになっていくものだけど、このPortraits of Pastというバンドにはあまりそういった分かりやすい方向性が見えなくて、だからちょっともやっとしてしまうのだろうが、要素要素に注目しているうちに段々曲の良さが頭に入ってくる。移ろい行く事に美学かあって一番分かりやすいのは曲の展開における速度の調整だろうか、そしてボーカルの声もクリーン、スクリーム、そしてその中間がある。個人的にはボーカルパートにおいてはその中間がとにかくアツい!詩を歌うにしても言葉にできない感情が詰まっているってこういう事じゃないかと思ってしまう。(つまりそれがバンドの良さの一つ。)

日本でも結構方々で紹介されているこのバンドのこの音源。あふれる感情をそのままのせた様な混沌に正直戸惑ったものの、しばらく聴いていると少しずつその理由が分かって来た様な気がした。枠にとらわれないDIY精神がハードコアならまぎれもなくハードコアでしょ。激情ってなんだ?と思っている人は是非。

東雅夫編/世界幻想文学大全 怪奇小説精華

編集者、アンソロジストの東雅夫さんが世界の幻想文学をまとめようとぶちあげた筑摩書房から出版されている世界幻想文学大全全三冊。これはそのうちの一冊で名前の通り怪奇小説をまとめたもの。精華というのは「最も優れたもの」という意味があるらしい。その名の通り古今東西名作と誉れ高い様なクラシックを集めたもの。
最近は現代以降を舞台にしたSFやらミステリーなどばかり読んでいたからか、オカルトっぽいやつが読みたい!何かよこせ!と思って買ったのがこちら。このシリーズは他にエッセイや文学論を集めたガイダンス編となる「幻想文学入門」、幻想小説を集めたアンソロジー「幻想小説神髄」があるのだが、私はこの本を始めの一冊に選んだ。幻想小説にも大いに惹かれるものがあったのだが私のやや下卑た好奇心はより分かりやすい恐怖に心をくすぐられたのだった。
収録作品は以下の通り。(東さんのブログよりコピペ)

  • 嘘好き、または懐疑者(ルーキアーノス)高津春繁訳
  • 石清虚/龍肉/小猟犬――『聊斎志異』より(蒲松齢)柴田天馬訳
  • ヴィール夫人の亡霊(デフォー)岡本綺堂訳
  • ロカルノの女乞食(クライスト)種村季弘訳
  • スペードの女王(プーシキン)神西清訳
  • イールのヴィーナス(メリメ)杉捷夫訳
  • 幽霊屋敷(リットン)平井呈一訳
  • アッシャア家の崩没(ポオ)龍膽寺旻訳
  • ヴィイ(ゴーゴリ)小平武訳
  • クラリモンド(ゴーチエ)芥川龍之介訳
  • 背の高い女(アラルコン)堀内研二訳
  • オルラ(モーパッサン)青柳瑞穂訳
  • 猿の手(ジェイコブズ)倉阪鬼一郎訳
  • 獣の印(キプリング)橋本槇矩訳
  • 蜘蛛(エーヴェルス)前川道介訳
  • 羽根まくら(キローガ)甕由己夫訳
  • 闇の路地(ジャン・レイ)森茂太郎訳
  • 占拠された屋敷(コルタサル)木村榮一訳


前述の通り最も優れているものを集めたアンソロジーだからいずれもこの道では有名な作品となるのだろう。かくいう不勉強な私でも目にするのは何度目かの作品もあった。
なかでも「幽霊屋敷」!こいつの後半は本当にゾクゾクする。個人的にはラブクラフトの廃屋趣味は多くこの作品に影響を受けたのではと思ってしまう。隠し部屋、オカルティックなアイテムなどとにかくギミックというか舞台装置が最高。ただそれらの道具達から浮かび上がる不思議な不老不死めいたなぞの男の悪意が最も恐ろしいものであって、先ほど名を挙げたラブクラフトの志向したコズミック・ホラーとは一線を画すのかもしれない。何回読んでも良いものだ。
「アッシャア家の崩壊」は恐らく私は別の方の訳で(「ポオ全集」だったと思うが)「アッシャー家の崩壊」を読んだのだが、龍膽寺旻氏の役は大変仰々しく始めは驚いたもののすぐにゴシックなその退廃的な世界に飲み込まれて、以前とはまた違った雰囲気でこの作品を楽しむ事が出来た。そういった意味では訳者というのはやはり力量が問われる仕事だし、訳者が変わるならばその分読者も楽しみが増えるという事になるのでは。
「聊斎志異」は今もそうだが、特にうだつの上がらない時期に岩波文庫版を読んだ事もあって個人的には思い入れがある。恐怖というよりは怪異の記録といった趣で非常に想像力をかき立てられる。東西での恐怖感の違いというテーマは無学な私には重すぎるが、怪異の要因、因果関係に冠しての説明が希薄で自然と混沌と混じり合っている様はこの本の中では特に独特だと思った。
そして始めた読む作品というのは初体験というそれだけでよりいっそう甘美であると思う。ロシアの民間伝承の雰囲気を色濃く描いた「ヴィイ」。その牧歌的な書き出しに正直かなり驚いた。私はロシア文学というとほとんど(ぱっと思い浮かぶのはこの間感想を書いた「ストーカー」とかあとは大学生の時に読んだ一連のドストエフスキー作品くらいだろうか)読んだ事がないのだが、イメージに反してロシア人というのはとにかく陽気だという。うっそだ〜と思っていたが、この「ヴィイ」というのは貧しくとともなんとものんびりしていてたくましい一昔前のロシアの庶民の生活が書かれている。のんびりしていると中盤以降の恐ろしさに震える事になる。貧しいという事は死がその生活の一部であって、たとえ金持ちでも本質的に橋に対して人間が出来る事はほぼないのだが、一種薄情にすら思える位淡々と達観したようにその牧歌的な生活に取り込まれていて、ヴィイという妖怪もさることながらそこら辺の死生観がにじみ出て面白かった。無常観はちょっと仏教っぽくすらあるな、と思ってしまった。
特定の人にしか見えない町とそこにおくる怪異を描いた「闇の路地」はとてもモダンで驚いた。自分にしか見えない町があってそこは無人であるがなにか不吉な雰囲気がある、という設定が良い。ここに冒険的な面白さがある。襲撃されている野田がその正体は分からない。個性的でたくましい女性達が活躍する、ということでなんとなく「うずまき」などの伊藤潤二さんが漫画化したらとても映えるのではと思った。
ラストを飾る「占領された屋敷」も良い。これも怪異の正体は分からない。とにかく全編を覆うのはぼんやりとした不安であって、ひょっとすると主人公達2人の兄と妹がその精神を蝕まれているのでは?という考えもそれに含まれる。ただ精神状態は抜きにしても静かに暮らす2人が次第次第に不幸にとらわれていく様なその様は、敢えて徹底的に抑えた筆致で描かれているととにかく読んでいて胸が締め付けられるように苦しくなる。これもまた恐怖小説の醍醐味ではないだろうか。

というわけで精華恐るべしな内容で文句無しに楽しめた。やっぱり怪異はいいな。怖い話が好きな人は是非どうぞ。非常にオススメ。