2016年11月20日日曜日

ネヴィル・シュート/渚にて

「世界の終わり」という言葉には何かしら人を惹きつけるものがある。
この言葉を聞いてまず私の頭におもいうかぶのはThee Michelle Gun Elephantの楽曲である。

この歌の歌詞はストレートだ。「世界の終わりを待つ君」というテーマについて静寂をつんざくように切り裂く激しいギターに合わせて歌われている。
世界の終わりはロマンティックだ。既存の煩わしいルール、人物、約束、物事に対する胸のすくような大破壊とそしてそこから何か私たちが全くみたことのない新しい何かが始まる予感がするからだ。
世界の終わりを考えるとき人は無意識に世界の終わりとそのあとの自分を思い浮かべるのではないだろうか。
そんな「世界の終わり」に対して容赦のない虚構を叩きつけるのがこの作品である。

ソ連と中国の間に端を発した争いは第三次世界大戦に発展。コバルト爆弾が飛び交いあっという間に世界は週末を迎えた。核兵器が撒き散らした放射能で世界のほとんどの地で生物は絶滅した。南半球の一部を除いて。アメリカ海軍に所属する原子力潜水艦「スコーピオン」は辛くも難を逃れ、オーストラリアの汚染されていない都市「」に寄港する。艦長タワーズは現地の人と触れ合いながらも今はなき故国に想いを馳せる。そんな中すでに住むものがいないはずのアメリカからモールス信号がはるかオーストラリアまで届く。信号は意味不明のものだったが、信号を飛ばすには電気が必要だ。タワーズらは万に一つの可能性を確かめるために「スコーピオン」でアメリカに向かう。

世界の終わりをテーマにした作品にしてはタイトルの「渚にて」はおとなしすぎるだろうと思う。
この物語は非常に抑えた筆致でときにのんびりとしているほど、そして意識的に温かい雰囲気で描かれている。心温まる、感動するといういっても良い。だが扱っているテーマはまぎれもない、世界の終わりについてである。
オーストラリアは戦火を逃れたが、放射能は北半球から地球全域に拡散し続け、およそ半年後にはオーストラリア全土ですら生物の住めない土地になってしまう。いわばもう人類と生物は余命宣告をされた状態である。電気は通じているがガソリンが貴重品で車の数は劇的に減っている。
そんな状況下で原子力潜水艦「スコーピオン」の関係者である、艦長タワーズ、オーストラリア海軍の 夫妻、同じくオーストラリア軍属科学者 、夫妻の友人でタワーズと接近するモイラを中心に物語は進んでいく。
この物語はとても不思議だ。世界の終わりの前の穏やかな生活を描いている。カタストロフィーを前にこの静けさ、穏やかさはちょっと違和感がある。世界がもし終わるなら、ルールになんて従う必要はないはずだからだ。思うにこれに理由は二つある。
一つ、世界の終わりにはある程度長い期間があるため、暴徒化するには暇がありすぎる。当たり前だが狂騒には莫大なエネルギーが必要である。半年間以上暴徒と化すのは難しい。
一つ、作者のネヴィル・シュートが意識的にそういった部分を書いていない。実は地の文で暴徒化している人々と荒廃した町に対しては言及がある。ただ登場人物たちは郊外か、軍の建物に入ることがほとんどなので争いに巻き込まれることが少ない。
個人的には後者の作者がそういったものを書きたくなかったからだと思う。そういうのを受け付けないというのではない。シュートは人間というもののその尊厳を描きたかったのである。それが明日終わる世界でも消えることのない火のようなその誇り高さ、そして暖かさを描きたかったのではなかろうか。良い歳になってくるとわかるものだがかっこい死に様とはイコールかっこいい生き様に他ならない。おそらく「渚にて」の世界でも大半の人はカッコ悪く生き、カッコ悪く死んだのだろう。その中でも人間らしくいきそして死んでいく人を書いたのがこの作品に他ならない。作中の暖かさ、それは終わっていく世界でとても稀有で難しい。そしてその希望もやがて潰えていく。私たちは自分を死なないと思っているが、登場人物たちも放射能の南下はひょっとしたら止まるのでは、自分たちは世界の破滅を生き残れるのではと思っている。しかし無情にも放射能の拡散は止まるということがなさそうである。戦争を始めたのは私たちではないのに、なぜ私たちは死なないといけないのか?大きすぎる力に伴うリスクがこの言葉に集約されている。
人間は自己保存の原則に従って生きている。子供をなすのは第一にしても、その他何かしら自分の生きた証を残したいのが人間である。しかし誰も残らないことが確定している世界で一体何かを残すことに意味はあるのだろうか。または「人生はクソで全く意味がない」というのはよく聞くフレーズだが、それではなぜそう言うあなた(または私)は自殺しないのだろうか?
世界の終わりは人類を含む全生物の絶滅だ。それは美しいかもしれないが、実際には美にはなり得ないだろう。なぜなら人類が絶滅した時点で完全な世界の終わりを観測できることができなくなるからだ。世界の終わりがそこに近づいているのにおままごとをするかの様に振る舞う人々、その姿を指差して滑稽だと笑えるだろうか。そこには諸行無常の残酷さがある。私たちは最低限、もしくは最大限生きることしかできない。ある意味最強の極限状態で一体私たちの生がなんなのか?と問いかけるのがこの小説では。

Thee Michelle Gun Elephantには「Girl Friend」と言う曲がある。活動の終わり頃にリリースされた曲で、チバ語とも評される比較的その指すところが判然としない歌詞が多いこのバンドでは珍しくメッセージ性が強く、そして真っ当なラブソングである。争いと暴力に満ちた世界をくだらないとこき下ろす一方で天国すらも唾棄する、ただ君といたいと言うその歌詞はある種前述の「世界の終わり」と対をなす曲なのだが、なんとなくこの小説にはこちらの曲の方があっている様な気がする。ちなみに私はどちらの曲も大好きである。

核という巨大な力と愚かな人類という最悪の組み合わせの恐怖を描くという意味でも広く読んでほしい小説だと思うが(つまりネヴィル・シュートの怒りに満ちた、そして静かな警告でもあるわけだ)、もっと普遍的にあなたのその生はどんなものなのか?と問いかけてくる、そこがいちばんの魅力だと思った。ぜひ、ぜひ読んでいただきたい一冊。

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