2018年2月25日日曜日

日記

夜更かししたのに息が苦しくて目が覚める。昨日の夜に花粉の薬をのむのを忘れたからだろう。しょうがないので朝ごはんを食べ、健康な精神というよりは妙な使命感により走りに出かける。
昨日は暖かかったのになんて寒さだろう。最近音楽聴きながら走れるようになった。Brockhamptonから急にPerfumeがかかって驚く。多分間違ってシャッフルにしたのだろう。会社の年下の先輩に「これを聞け」って言われてiTunesで買ったんだっけ、「シークレット・シークレット」。ぼんやり荒い息で走れば次の曲はPixies。不安定なギターの旋律に、やはり不安定な歌声が揺れる。先輩は今癌になってしまった。俺より年下なのに。

道行く人はみんな黄色い袋を持って歩いている。近所に安さが売りの雑貨量販店ができたのだ。地元の店は影響を受けるだろう。幸福や豊かさというのは言うまでもなく選択肢、選ぶ権利があることなのに。みんな得をしたいというよりは損をしたくないのだ。あらゆるものを安く使うようなれば自分もまた安く使われることになる。私達はこの先もっと貧しくなるだろう、もっと苦しくなるだろう。でも自分だって安い値段で買うだろう。
Pixiesが「俺の心はどこに行ってしまったんだろう」と歌っている。高校生くらいのあの頃みんなでトイレに行って意味もなく鏡に写った自分の冴えない顔と、窓の向こうにある青い空を見ていた。私達の予定とか恋愛とかはすべて生活の問題に取って代わられてしまった。優先度というくだらなさに。しかしそれに首根っこを押さえられているのだった。
Pixiesが「俺の心はどこに行ってしまったんだろう」と歌っている。

Dead Fader/Jenny 153

イギリスのブライトン出身、今はドイツのベルリンを拠点に活動するアーティストのフルアルバム。
2017年にParachute Recordsからリリースされた。
当初は2人組で活動していたが、今はJohn Cohenの一人ユニットになっている。
当初はインダストリアル・ビートを主体とした攻撃的な電子音楽をリリースしていたが、2014年に象徴的なアルバムを2枚同時リリース。今までの路線を踏襲した過激な「Scorched」。もう一方はビートが鳴りを潜めたアンビエントな雰囲気のある電子音で構成された「Blood Forest」。おそらくメンバーの数が減ったことにも要因があるのではと思う。
その後は2つの路線を明確に分けるのではなく、融合させる音楽スタイルにシフト。EPのリリースも多く、まさに試行錯誤で新しい音楽性を貪欲に模索していた。

今作ではそんな試行錯誤の果にリリースされた前作「Glass Underworld」の延長線上にあるものの、(おそらく)初めて人間の写真をジャケットに採用して今まで最も有機的な作品になっている。
当初は本当ガムガムしたドラム(すげー好き)が主役でむしろ後はどれだけ音を少なくしてビートを聞かせるかというコンセプトだったのだが、浮遊感に目覚めてそちらを追求しだしたのだが、やはりセンスがおかしくてうるせーノイズをしっかり残しておくという容赦の無さ。多幸感に包まれた浮遊感のその浮きかけた足を泥のようなノイズが引っ張るという、情緒もへったくれもないような気概がやはり最高である。3曲め「Raw Food」からの「FYI」はそんな芸風の真骨頂でありアルバム前半のクライマックス。2つの曲で微妙に相反する音の立ち位置を逆転させているのが面白い。
よくよく聞いてみると、低音にこだわりのない、空間的なエフェクトのかけられたフレーズもテクノの単純明快なミニマルさとは少し距離があり、また曲の展開も音の種類もテクノにしては複雑な方である。”異物の侵入”つまり違和感がいかに違和感なく曲に紛れ込むかという裏のテーマが曲作りの背後にあるのではと言うのは穿った見方だろうか。微妙に間延びしたような音、そして連続していながらゆっくりとその姿を変えていく音の使い方はどちらかと言うとわかりやすい攻撃性(ハーシュ)の牙を意図的に抜かれたノイズの手法か。不安定性のないノイズというのは巨大な水槽の向こうでゆっくりとその巨体を回転させる巨鯨をみるようになにか壮大である。心臓の鼓動がビートなら、その上に乗る生命活動は不安定。躍動する生命の芳醇さにまろやかなノイズでアプローチを掛けているとしたら、ジャケットに人の顔を配置するオーガニックさにも頷けるような気がした。

同時にリリースされた「Jenny 153 Remixes」ではJK Flesh、Roly Porter、Konx-Om-Paxの3人(このラインナップで大体当人の出す音がある程度想像できるのではないか。)がDead Faderの曲を分解し、再構築している。中でもやはりJustin先生のJK Fleshのリミックスは、バキバキ硬質なサウンドをミニマルにリフレインするというDead Faderにはありそうでなかった絶妙なバランスで凶悪な音の新しい可能性を提示しておりとても格好良い。そちらもぜひ合わせてどうぞ。
デジタルで購入したがやはりLPが欲しい。

イスマイル・カダレ/夢宮殿

アルバニアの作家による長編小説。アルバニアの人が書いた小説って多分読んだのは初めてじゃなかろうか。というかアルバニアってどこだ。System of a Downはアルメニア(コミュニティinアメリカ合衆国)だ。調べるとイタリアをブーツに見立てた時かかとの海を挟んで向こう側。恥ずかしい話どんな国なのか想像もつかない。

オスマン・トルコ1890年台。
アルバニアのキョプリュリュ家(キョプリュというのはトルコ語で橋の意)は毀誉褒貶の激しい名家である。何人もの政治家を輩出した一方では逮捕された人数も少なくない。
かつては家に捧げられた武勲詩にトルコ皇帝が嫉妬し、一悶着あったらしい。
そんな名家二世を受けた若者マルク=アルムは親族一同の喧々諤々の議論の末、タビル=サライに入庁することになった。
タビル=サライは帝国前途から民が見た夢を収集し、選別し、解釈するという公的機関。国民の夢から国の吉兆を占い、行く末を判断しようというのである。
ここで価値のある夢と判断されれば、かのスルタンに献上されることになる。
庁舎は拷問室も備える通称「夢宮殿」と呼ばれる広くそして迷宮めいた巨大な建築物である。権謀術数渦巻くこの迷宮にマルク=アレムは取り込まれていくことになる。

「夢宮殿」というタイトル、それから夜に見る夢を取り扱う仕事というあらすじから思わず幻想小説を思い浮かべてしまうし、なるほど非現実的で科学的な根拠に乏しいという意味ではその要素がなくはない。
しかし、実際に読んでみるともっと強固な物語という印象を受けた。帯にはディストピア小説と紹介されている。これはやはり当たっていて、国家が個人の極めて個人的な”夢”まで管理し、恣意的な判断により夢を見た人間を殺しうると考えるとこれは立派なディストピアと言える。
主人公マルク=アレムは気が弱く優しいと言えるが、陰鬱でやや神経症的だ。彼の目を通して語られるオスマン・トルコは曇天の下どうしたって暗い。しかし煽りほどディストピアかといわれると個人的にはちょっと首を傾げる。
まず国民は何かを制限されているわけでも、何かを搾取されているわけではない。夢を覗き見されているのだが、実は個々人結構喜々として各地元の役所に報告している。皇帝に取り上げられる夢となったらそれは大きな名誉だ。私生活を監視されているのは気分が悪いが、夢ならどうだろう。私が夢の提出を国家に求められたら面倒くさいが別にすごい嫌という感じがしない。もちろん作中では夢解釈のため、当該の夢見人が宮殿に引っ立てられて(おそらく)拷問の末殺されている(二人出てきてふたりとも死んでいるから致死率は100%である。)から、これはもう立派なディストピアであるが、オーウェル、ハクスリー、ブラッドベリのそれらと比べるといかにも規模が小さい。この小説はもう少し別の何かを訴えているようではある。

そもそも夢とは何か。それは未だによくわかっていないようだ。脳のデフラグだとも言われるがやはり模糊としており、その判断というのは古今東西人を引きつけるものだ。これに解釈となれば恣意的なものにならざるをえないし、国家的にそれをやってのけるというのは、多いな無駄にも思える。(これの判断も実際にやってみないことには出来ないのだが。)ビッグデータの走りとも言えなくもないかもしれない。(とくにその効果が未だはっきりしないという意味(少なくともビッグデータで私の生活は向上していない)では託宣という意味で皮肉な符号がある。)そもそも作中で詳らかにされるのだが、この宮殿内の夢解釈ですら捏造されている。宮殿はその特殊な構造(=機能)で(排他的であるしなんなら内部にいる人も全容を理解しない。また皇帝という最上級権力に直結しているという点で。なにより扱っているデータが模糊としている(つまり手心を加えることが容易である)という点で。)、常に権力闘争の場となっていた。夢判断というブラックボックス(=よくわからないルール)が権力の行使の理由となり、権力の道具になり、ついには権力そのものとなる。主人公はそのいわば架空だが最も苛烈な戦場に送り込まれ、翻弄されている。
夢とはなにか。少なくとも完全な球体はしていない。見る角度によってその形を変える歪なもの。それ故に読み手の心を反映してどうとでも解釈される。結論ありきの不完全な”ファクト”として消費される個人の夢たち。官僚的というよりは役所的な冗長な手続きによって秘匿される夢たち。キョプリュリュ家の一員として、またタビルの職員として否応なく権力闘争の爆心地に多々ざるを得ないマルクはしかし、優しくも無能な男であり、その細い神経は段々とすり減っていく。常に頭上には曇天が重苦しくのしかかり、常に寒さと疎外感にさいなまれる。彼の感じる重圧そして不自然さ。マルクの青春は入庁と当時におわり、不自然さがいつか通常の状態に滑り込んでいく。いわば緩慢な麻痺状態に陥っていく。巨大で真っ黒く底なしの竪穴と称される夢の集積体はしかし、不自然さを共用するより大きな仕組みのことではないかと思った。

夢の解釈は不可能である。

U TAKE ORB.Vol.2@高円寺二万電圧

大阪のsecond to noneは何度か東京で見る機会があったのだが、ことごとく気を逸してしまっていたので今回はということで東高円寺の二万電圧に。この日はQuetzalcoatlのEPのリリース記念ライブ。Quetzalcoatlの方はこの日初めて見るし聴くことになった。(調べても音が聞けないというスタイルのバンドのようだ。)

second to none
一番手はsecond to none。Discogsによると1993年頃に結成されたバンドらしい。こちらもネットにはほとんど情報がない。2016年に1stアルバム「Bāb-Ilū」をリリースし、私も発売当時に購入し、ろくに調べずに聴いてたものだからこれはドゥームなデスメタルだな!と思っていた。(感想書いたんだけど、先程見たら公開するのを忘れてた…。)確かに音的にはデスとドゥームの要素はあるのだが、調べるとハードコアバンドだということがわかる。元々BreakOutという関西のハードコアの集団(?)があったらしく、その母体に属するバンドということみたい。開演を待っているとサイズの大きいパーカもしくはコーチジャケットに身を包み、ニット帽もしくはキャップをかぶったそれらしい人たちの姿がちらほら見えて、「真ん中にいると危ない」なんて声が聞こえてきて恐ろしい気分になってくる。
客電が落とされフロアには青い光(強烈な青というよりは水色ががってきれい)が灯されて(演奏中はずっとこの照明)ライブがスタート。ツインギターで片方はAssembrage、Cataplexy(元々デスメタルとして開始したはず)のギタリストの方。ベースはGreenMachineのメンバー。音のデカさにやられるが、よくよく聴いてみると各メンバーの出す音がきちんと分離している。弦楽体はたしかに低音に偏重しているが、ギターとベースでは深さが違ってきちんと住み分けができている。ベースは特に低くて太く、首と背骨のつなぎ目あたりがブワブワ震えてほっとくと頭が上に持ち上がっているような感覚がしてすごく気持ち良い。ギターは粒子の粗い詰まった音でメタルとハードコアの中間辺のイメージだろうか。ドラムがすごいなと思ったのだが、バスドラムは重たいのだが、スネアとかシンバルはタイトで軽めにセットされていて、遅い楽曲にしては手数が多い。これが弦楽器の重たさと好対照になっている。曲は遅くほぼ疾走するようなことはない。デスメタルをただ遅くプレイするのではなく、異常にタメが効いている。ザクザク刻むのだが音をぶつ切りにするのではなく、ほぼ強烈なフィードバックを含めて音が途切れることがないように設計されていて、文字通り窒息させるような地獄(ドゥーム)感がある。音のデカさもあって、Sunn O)))やBell Witch感すらある。
ボーカルの方は細身で背が高く、はじめはマフラーをしておりスマートな見た目なのだが、唸るような低音主体のデスメタリックな声質。ステージをゆっくり動き回り客席を強烈に睨めつけてくる。怖い。中盤以降はちょっと首を揺らせたり、人差し指を口の前で「しっ」のポーズをとったり、確認のように客席を指差したり。指差しすると客席ではモッシュが起こる。魔術師。見た目はむしろジャズって感じなのに〜と思った。ところでジャズには”スウィング”という独自の概念があって、会社のジャズが好きな人に聞いたら音的な特徴を言語化するとリズムをはじめゆったりしてちょっと後ろに詰めるのだそうだ。つまり一定ではないリズムをわざと作ってグルーヴィにするらしい。second to noneはまったくもってジャズではないが、ちょっと似ている部分がある。それはこのリズム感だ。とにかく溜める。タメてタメて、それで強烈なアタックが来る。特にドラムが変則的かつ多様でドラムだけのトラックを聞いたら相当面白いのではなかろうか。ドゥームにメリハリをもたせるというよりはむしろやはりハードコアのあのつんのめるようなリズムだろう。それを劇的な低速でやっているのだ!と低音の地獄にやられている頭で思いついた。もちろんただモッシュパートを延々とやったら流石にマッチョ耐久レースになってしまうから、デスメタルの荘厳な感じを曲に取り込み(よくよく考えたら結構水と油の要素をよくまあ混ぜ込んだものだ。)、さらに凶悪にドゥーム化させたような雰囲気。それはモッシュも頻発するだろうなと納得。超ロングセットということで1時間半以上プレイして終了。ヘトヘトになったが本当格好良かった。

Quetzalcoatl
続いてはこちらは東京のバンドQuetzalcoatl。今日はEPのレコ発であるから主役。second to noneと同じツインギターに専任ボーカルの5人体制。元T.J.Maxx、Stinger、Low Visionというハードコアのバンドのメンバーによって結成されている。(Low Visionは何回かライブ見たことある。)このT.J.Maxxは大阪で活動しており(ボーカルの方はMCでは関西弁)、元々はsecond to noneと同じくBreakOutに属していたらしい。そういうつながりで今回のライブになったのかと納得。
second to noneとは打って変わって明快な音だが、音楽的にはかなり説明するのが難しい。曲によって結構雰囲気が変わるのもあるが、ハードコアを通過してややオルタナティヴになった音を基調にしている。ギターはザクザク刻んだりもするが、音を高音から低音までまんべんなく鳴らしており、場所によってはコード感も結構ある。ドラムの人は顔と体で叩け!といったエモーショナルさで前にせり出してくる。ベースもかなり肉体的でとにかく小節に限界まで音をぶち込むくらいの気迫で硬質な音を連打しまくる。ステージングも一番派手だった。上背のあるボーカルの人がかなり独特で、ライブの前半ではほとんど節のある歌い方をしなかった。がなりたてるようなハードコアスタイルでもなく、歌詞を力強く読んでいくような形。所見でも結構聞き取れるくらいの歯切れの良さ。でもおしゃれなポエトリー・リーディングとはぜんぜん違う。とにかく力強い。バンドの演奏も小節の頭を意識させるような明確な弾き方だから、なんならラップに通じる気持ちの良さがある。といってもミクスチャー感はないからやっぱり相当変わっている。中盤以降は節のある歌唱法を導入していき、どんどん歌めいてくる。中盤では速度を落としてヘヴィにした楽曲や、冒頭にアカペラのような独唱を用いた曲などを次々に披露。それぞれに表情があるが共通しているのはやはり日本語の歌詞。これをちゃんと聞き取れるような速さと勢いに調節されているような気もする。歌詞もまた独特でおそらくだが、団結と友愛の素晴らしさについて雄々しく(声が太くて格好いい)歌い上げるんだけど、結構神話的な要素もあって、多分なんだけど「大国主〜」って歌ってたようなきがする。別に怪しいとか、左右いずれかとかそうではなくて、普通にひょいっと出てくるような感じ。相当な懐の深さを見せつけてくるのだけど、フロアを見れば殺伐とした感じというよりは熱量が眩しい。そういった意味ではストレートな日本のハードコアといってもよいのではと思う。

物販で幾つか購入して帰宅。自転車できたのだけど結構距離があって帰り足がパンパンになってしまった。しかし自転車こいでいると冷静にライブのことを思い返したりできて良い。すごく寒かったけど。楽しかった。

2018年2月12日月曜日

STATE CRAFT/TO CELEBRATE THE FORLORN SEASONS

日本は東京のハードコアバンドの1stアルバム。2000年にGood Life Recordsingsからリリースされた。STATE CRAFTは1995年に結成されたバンドでデモやスプリットなど音源の数はかなりあるようだがアルバムはこの1枚のみ。いろいろなところで名前を聞くバンドで普通に新品で売っていたので買った次第。

「孤独な季節への祝福」と題された今作。ニュースクール・ハードコアの名作と聴いていたがアートワークはおそらく聖書のノアの洪水に題を取った宗教画で飾られているのが意外だった。再生してみると1曲め「Ecliptic Horizon」はなんともエピカルなインストで驚く。どうもハードコアではこういったキリスト教的なモチーフを好んで用いる動きがあったようだ。メンバーにはストレート・エッジの方が含まれるようだがおそらくクリスチャン・ハードコアではないと思う。
2曲めが始まるとザクザク刻んでくるメタリックなギターに力強く絞り出すようなボーカルが乗るハードコアだ。ガッチガチにソリッドにして一部の中音域を完全に振り捨てたようなベースが伝統的なハードコアスタイルを彷彿とさせる。ボーカルもやや憂いを含んだ日本独特のものなのだが、あくまでもタフで例えばnaiadのようにそこから激情方面に進んでいくような”迷い”が見られないのがよい。あちらはあちらで超格好いいが、こちらはあくまでもニュースクール・ハードコアだ。迷うより先にまず体を動かすのだ。演奏の方も巨大なハンマーをぶん回すかのような重量感で、ブリッジミュートを用いた緩急のあるリフでハードコア特有の”はずみ”のあるリズムを作っていく。疾走するところは走り(といっても基本激速はなくて中速よりやや速いくらい)、それから一点速度を落とし込んでいくブレイクダウン。要するにモッシーなハードコアでなるほど徹頭徹尾筋肉質でタフであるけど、同時に非常にメロディアスだ。全編これメロディアスと言っても良い。一時期隆盛を誇った売れ筋メタルコアのようにクリーンボーカルで激甘なサビをつけるのではもちろんなくて、演奏、具体的にはギターが非常にメロディアスなのだ。ギターが歌うタイプでやり方的にはブラック・メタルにおけるトレモロギターみたいな。もちろんこちらはトレモとは全然使わなくて、代わりにハードコアのパーツを分解してそれを一つずつ丹念に磨き上げていく。メロディに振りすぎると軟弱になってしまいがちなところをまさに職人技で持ってタフさを一切失わずに絶妙なバランスでメロディ性を混ぜ込んだ、まるで混ぜることで美しい刃紋を浮き上がらせる合金で作った日本刀のような鋭さ。結果的にモッシーだけど非常にエモーショナルなニュースクール・ハードコアが出来上がる。なるほどニュースクールといえばPoison the WellやShai Huludのような叙情派という言葉が思い浮かぶ。私は全然詳しくないけど例えば前述の2つのバンドに比べるとこのSTATE CRAFTはちょっと異なっていて面白い。メロディアスかつ短いギターソロなんかはこの間感想を書いたFinal Sacrificeみたいだが、あそこまでくどくはない感じ。すべてがコンパクトに纏められている、というのはあくまでもハードコアで勝負という気負いを感じる。

海外で生まれたハードコア・パンクという音楽が日本でジャパニーズ・ハードコアという独自のジャンルを生み出したように、ニュースクールの分野でもひょっとしたら日本独自のものが育っていったのかなと思う。例えばenvyが旗を振る激情方面がそうかと思っていたのだが、もっとこうピュアでタフなニュースクール方向の輝かしい未来もきっとあったのでは。(シーン自体はもちろん今もあります。)残念ながらSTATE CRAFTはこのアルバムを出した後活動を休止してしまった。残念。
6曲目「Forever Yours」からの流れが個人的には大変すきだ。新品で買えて幸運だった。非常に格好いい音源。おすすめ。

2018年2月11日日曜日

サミュエル・R・ディレイニー/ノヴァ

アメリカの作家の長編小説。

西暦3100年代。人類はその版図を宇宙に大きく広げ、それぞれの星系で文化を発展されていた。距離が離れればやはりそれぞれの文化の思惑でときには対立が発生するもの。地球を含むドレイコ(蛇竜)領に属するトライトンという星でサイボーグ船士マウスことポンティコス・プロヴェーキは特徴的な男に会う。銀河の大富豪ローク・フォン・レイ。美男だが醜い傷跡が縦方向に顔に走った異形の男に誘われ、他の何人かとロークの船「ロック」の船員として雇われる。ロークはやはり大富豪のレッド兄妹と因縁があり、莫大なエネルギーを持つ物質イリュリオンを取りに行くらしい。ローク一行の危険に満ちた冒険が始まる。

壮大なSFなのだが星間移動のシステムがきちんと説明されていなかったりとかなり特徴的だなと思った。作者ディレイニーは相当変わった人物らしく、「ダールグレン」を始めSFの枠に留まらないファンタジーやその他の領域に足をかけた様々な物語を書いているらしい。この「ノヴァ」もSFの体裁を取っているが、物語の足をすすめるのを時として妨げるくだくだしいSF的な説明は大胆に省いてかわりに破滅的な物語を船に乗せて、ロケット燃料に点火してクライマックスに叩き込むかのような勢いがある。
あとがきでも役者の伊藤典夫さんが述べているように神話的な意味合いがある物語で、個人的には呪われた男の話であり、爆発して進化していこうとする神と安定と停滞、そして死を司る神の終わりなき闘争の神話の一部にも思えた。中心にはローク・フォン・レイという魅力的だが頭のおかしい男と、彼と対立するやはり常軌を逸したレッド兄妹(ただし経済的な問題から端を発したいるところから始まり、妹との三角関係からいまいち脱却しきれないプリンセス・レッドはロークほどの神性が感じられないのが面白い。)の関係を、個性豊かだがあくまでも普通の人間のマウスとカティンの目を通して描いている。タロー(タロット)カードが象徴的で強い意味をもち、マウスの奏でる電子ハープが物語を導いてく、不思議で先進的なロマンスが見え隠れし、破局に一直線に突き進みながらも、未来の銀河の異様さにも目を向ける旅情はまさに王道のファンタジーとも言える。決して豊かで奇抜な設定のみに陥るわけではなく、物語の骨子は相克と対立と闘争なので、見た目の異様さに反して頭に入りやすい。
キャプテンロークのカリスマ性に心惹かれるのはなにもマウスたちだけではないが、とにかく彼というのは横溢するエネルギーが尋常ではなく、やはり人には思えない。名家の子息としての自身と傲慢、プライドと気負いなのか、それとも恋をした(?)レッド兄妹の片割れルビーへの執着なのか。それともただ似た境遇にあるプリンスへの反抗心、負けん気の発露なのか。イリュリオンを奪取し、今ある銀河の近郊を崩壊させんとする彼は正義のみかたというよりは、むしろただの無軌道な反逆者にも見える。闘争を運命づけられ、衝突と不幸を周囲に撒き散らす彼はやはり呪われた男だ。
タイトルにもなっている「ノヴァ」とはイリュリオンが生まれる星の大爆発である。(いわゆるスーパーノヴァとかとは少し違うやはり作者独特のものらしい。)善悪の彼岸を超えた異形の物語が、星の死である大爆発に収束していく。一体その先に何が残り、冒険者たちが何を得られたのかというのは、非常に面白いところだと思う。

非常に面白くて手に汗握って読んだ。想像力の限界に挑む知的なSFがついつい忘れがちな自暴自棄な激情がほとばしっている。作者の違う本も読んでみようと思っている。

小手/雑記

日本の東京のポストロック/ハードコアバンドの1stアルバム。
2018年にIOTOからリリースされた。
小手は2000年に結成されたバンド。メンバー四人は作務衣に身を包み、ボーカル以外は日本の伝統的なお面(狐と鬼)をかぶっている。5弦ベースと7弦ギターを使い、バンド名やその世界観からわかるように和を意識したバンドだが、出している音はかなり特殊。
私はこのバンド名前だけは知っていたのだが、会社にいる音楽好きの(元々バンドをやっていた)人からとにかく聞きなさい、ということで紹介された。これがとてもよくて仕事中にyoutubeのライブ動画を聴いたりしていた。で、タイミングよくアルバムが発売されたので購入してみた。

作務衣にお面、弦の多い楽器とくれば和製Slipknotか?って思ってしまうけど、聴いてみるとぜんぜん違う。(和)太鼓を意識したような独特の叩き方のドラムがリズムを刻み、ギターはクリーントーンでアルペジオまたは単音で透明かつ温かみのあるクリアな音を奏でていく。音の数は少なく、残響が意識されている。ミニマルに繰り返されるアンサンブルが穏やかに暖かく胸にじわじわ染み込んでくる。ベースも存在感はありつつあくまでもさり気なく滑るように入り込んできて、ギターとドラムの間にもう一本の太い綱を張り渡す。そこにボーカルが乗ってくる。やはり和を意識したようなお経や、古典芸能のように独特な節をつけて歌うパートもあるけれども、基本的にクリーンボーカルで歌詞を読んでいく。ほとんどメロディはないわけで、どちらかと言うと語りに近い。いわばポエトリー・リーディングであり、そういった意味ではバックの演奏と相まって非常にポストロック的なアプローチだ。ただ殆どのポストロックがポエトリー・リーディングを主役に据えることはあまりなく、ときには単に激しさとの落差をつけるだけのかったるい夾叉物でしかない。小手はしかしここを主戦場に据えて自分たちだけの音楽を模索している。この歌詞こそが小手の音楽だ。小手の歌詞は長い、そしてリフレインが殆ど無い。長い歌詞を良くも忘れずと思う(ライブでも正確でこの間は少なくとも一回も言い淀んだことはないと思う。)くらいとつとつと読んでいく。いわゆるいい声でもないが、それでも歯切れよく歌詞を見なくてもわかるくらいはっきりと読んでいく。ボソボソわかるんだかわからないんだかわからないそれらしいことを喋る自己陶酔めいた音楽とは異なる。そうなるとラップでは?と思うし、実際に聞きやすさは韻の踏み方というところで意識されていると個人的には思うが、抑揚がなく、やはり語りかけるような手法はラップと言い切るのは無理があるように思う。
さてじゃあその長い歌詞はどうなの?って話になるのだが、ひょっとしたら小手の音楽は若い人には刺さらないかもしれない。特に今音楽をやっているような若者からしたら負け犬のおっさんの愚痴めいた繰り言・遠吠えにしか聞こえないなんてこともあるかもしれない。音楽で一旗揚げられず、かといって家庭と仕事にもフルコミットできず、未練が残る。葛藤と後悔、いい年こいて「まだ俺にも!」なんて捨てられない希望。それが生々しく綴られていく。感情だけを綴っていくとどんどんアート的詩的になりがちだが、そこはこの小手きっちり曰く「灰色」の日常生活に感情を落とし込み、溶かし込み、コンクリートでできたかのような正確な描写で書き連ねている。この毎日のつまらないこと!つまらない割には圧倒的に時間を取られる仕事、毎日がいつも同じ。怒られるだけでちっとも冴えない。うだつの上がらない。お金がほしい。後悔ばかりの人生。まだ自分には何かできるはず。そんなどこにでもある失敗した人生が飾らない言葉で綴られる。このつまらない人生にはしかし、本当に何もなかったのか。だいぶ偏った喜怒哀楽、勘違いだけど熱い気持ち、わずかばかりの大切な人、一瞬だけ火花のように燃え上がって消える1日、そんな退屈のなかの幾つかの日々がちょっとだけ光っている。重たい灰の下にちょっとだけ光っている。それを灰ごとすくい上げたのが、この小手の音楽だろう。だから終始ミニマルな演奏も繰り返す日々のメタファーという意味で非常にしっくり来る。

小手の音楽は1枚の写真に似ている。なぜ彼らがお面をかぶっているか。それは彼らが誰でもないからだ。つまり誰でもある。この冴えない人生は、この雑記は彼の、あなたの、そして私の物語にほかならない。無常に進んでいく日々の横方向の動き、感情の起伏の縦方向の動きで織り上げられた、冴えない物語。あなたは写真のように切り取られたこの灰色の毎日に、自分の人生を振り返る。砂金のように少しだけ揺らぐ煌めきに空っぽだと思い捨てた人生の重みを知るだろう。なんという前向きな、そして優しい音楽だろうか。

2018年2月4日日曜日

assembrage/A Curtain Call of an Aeon

日本は大阪府のデスメタリック・ハードコアバンドの1stアルバム。
2017年にGuerrilla Recordsからリリースされた。assembrageは2011年に結成されたバンドで現在のメンバーはCataplexy、Second to None、Greenmachineなどのメンバーでもあるようだ。どうもフライヤーを見るとバンド名は「Assembly of the Rage」を短く詰めたもののようだ。

全15曲で9曲がアルバム用の曲、残りの6曲は2014年にリリースされたLP「A Wheel of Wraith」収録の曲を取り直したものということ。装丁も凝ったものになっていて、ジャケットの表の緑色のもやもやはスリーブではなくケースに直接塗装が施されている。1stプレスは発売後にすぐに完売し、今売っているのはケースの緑の塗装を赤に変更した2ndプレスとのこと。
「アイオーンのカーテンコール」というタイトルでアイオーンには調べてみるといろいろな意味があるそうだ。曰く「時間」「時間の神」「真の神」など、どうやら様々な神秘思想で用いられる言葉らしい。インナーも開いていみると凝った世界観が提示されており、重厚な物語性があるという意味ではメタル的である。
音の方はと言うと強烈に撓ませひび割れた音が特徴的なサウンドが耳を突く。いわゆるスウェディッシュという言葉で評されることもある得意なサウンドで、ギターにHM-2というエフェクターを噛ませて作るあのサウンドである。レーベルインフォによるとこのエフェクターをフルテン、つまり効果をかけるつまみをマックスまで振り切らせているとのこと
。チューニングも下げているし実際相当な低音なのだが、このサウンドはただ重たさ一辺倒ではなく、やはりグチャッと潰れたような、ひび割れてささくれだち、意図的な雑味が聞いている。ドス(またはエフェクターかな?)の効いたボーカルも同様にひび割れた声で低音うめき声から高音喚き声。どう考えてもユーザーフレンドリーな音楽ではないので圧倒される。「これは気合の入ったデスメタルだなあ」と私は思っちゃったわけなんだけど、3曲くらい聴いていると不思議なもので音の衝撃から立ち直って慣れてくる。どっしり構えてずんずん進むドゥーミィなデスメタルとは違う。装飾過多な荘厳さはあまりなく代わりにもっとストレートな突進力がある。かなりハードコア的なアプローチで、この音でハードコアというとTrap Themが頭に浮かぶけどあそこまで冷血でカオティックではない。なんかもっとこう熱く、血潮がたぎるような、とここでそうか日本のハードコアか!と納得がいく。かなりいかつい音なのではじめは気が付かないのだが、速く重たく、しかし爽快で気持ちがよく、なにより聴いている人を熱く盛り上げる情熱をもったあのハードコア。そう考えるとメタルから持ち込んだ色彩豊かでテクニカルなリフと感情のこもったメロディアスなギターソロが説得力を持って前にせり出してくる。もちろんアンダーグラウンドな音楽であることは間違いないだろうが、思ってたよりずっと聞きやすい。唸るツインギターのソロなんてクラシカルであり、この間再発されたDeath Sideを彷彿とさせる。個人的に好きなのはボーカルでここだけは完全にメタル的なアプローチだと思う。だから熱いハードコアサウンドと相克と対比がよく出ていて陰影がきっちりしているし、オリジナリティが出ている。ただ熱いねえ!というのではなく、まず一回は完全に初見でぶん殴ってくるみたいな迫力があり好きだ。

HM-2を使った音でハードコアをやるというアプローチで冷たい方に走った海外勢と、真逆の熱い方に走った日本と差が出て面白い。熱いハードコアが好きな人は是非どうぞ。

2018年2月3日土曜日

ミシェル・ウェルベック/素粒子

フランスの作家の長編小説。
「地図と領土」、「プラットフォーム」に続いて三冊目。

1928年にアルジェリアに生を受けたジャニーヌは当時にしては先進的な女性だった。野心的な医師と結婚。豊かな暮らしの中で子供を設けるが子育てには感心がなかった。不倫の末もう一人男の子を設けるが、やはり育児は放棄。異父兄弟の兄ブリュノは平凡な教師に、弟のミシェルは天才的な分子生物学者になった。ともに愛情の欠如した家庭で育った二人は全く異なる個性を持つが、その奇妙な関わりはおとなになっても続いていた。

「地図と領土」でも自分自身を登場人物として描いていたが、後書きによるとこの本の主人公には作者自身の生い立ちがかなり反映されているようだ。親に顧みられず友達も少ない、人付き合いへの苦手意識が長じても治らず、孤独感に苛まれるが故に他者を強烈に求めるが、自分の経験と自己評価の低さでまたもや人と良好な関係を築けずさらに孤独と身中に貯まる欲求不満と怒りをふつふつとたぎらせていくという悪循環。ウェルベックは割りと飽食と薄れ行くつながりという視点から現代を鋭い角度で描く作家と言われるが、昔の人間が皆仲良くやっていたわけではなく、きっといつの時代にもその次代に馴染めない人たちと彼らが抱える孤独があったのだろう。現代社会ではその孤独が豊かさの中で浮き彫りになっているのかもしれない。(そういった意味ではやはり現代を書けているとうことになる。)
読んでて思ったのはちょうど「地図と領土」と「プラットフォーム」の間の子みたいな作りになっているなということ。孤独で強い、つまり一人で生きていくことができる飛び抜けた才能を持った天才分子生物学者のミシェルはどうしても「地図と領土」のやはり天才芸術家ジェドを彷彿とさせる。一方ミシェルの兄であるブリュノは「プラットフォーム」の主人公性欲は強いが常に満たされない不遇の冴えない男ミシェルに通じるところが多いにある。二人はともに社会と健全で普通の関係は築けていない。前にも「プラットフォーム」の感想で書いたが、ウェルベックはとにかく対立する2つという一人構図が得意でこの小説にも主人公の兄弟をはじめとする様々な2つが出てきて、それの対立と類似、つまり異なる2つの比較というところが肝になってくる。面白いのは相変わらずウェルベックの小説というのは筋やストーリーというのはあまり強くなく(「プラットフォーム」はストーリーにわかりやすい動きがある、比較的。)、特定の場面を切り取って会話や感情の動きを丁寧に書いていく。いわば切り取った日常により大きな場面を封じ込めているわけで、全体的に比喩的な作りになっている。甘いノスタルジーに中年の汚い性欲を重ねるなど、露悪的に受け取られるかもしれないが、単に奇をてらって悪趣味に走っている趣はいよいよ感じられず、やはり愛情を軸とした関係の一つの頂点にあるのがセックスという、ひとつの儚い(おそらくそうではないことを作者も登場人物もすでに気がついている。)理想があり、ウェルベックの物語に出てくる主人公たちは人間関係の形成に重篤な障害をかかえているあまり、そのセックスというところだけを切り取ってそこに執着してしまう。(性欲が根源的に強い衝動であるというのもあると思う。)つまりセックス狂やニンフォマニアとは明らかに異なり、あくまでも思春期の子供が思い描く究極の愛の果にあるセックスへのあこがれが、愛情そのものへの経験の無さからセックスの前後をすっ飛ばし、愛の象徴としてのセックスを強烈に希求させている。だからかパートナーとのセックス描写はその殆どが幸福な雰囲気の中で描かれている。いわばずれた人間を描いており、その浮きっぷりが切ない。彼らが汚いとしてもどこかに純粋さがあり、それがキャラクターを複雑かつ愛嬌のある物足らしめていると思う。だからやっぱり個人的にはミシェルよりブリュノの方に感情移入してしまうのである。
お互いに好きなことをぶつけるだけで微妙に噛み合わない兄弟の会話。やっと手に入れた愛情のある関係の終焉。確執のあった母親との別れ(ここに一つの大きな虚無、いわば復讐後の虚しさを取ることができる。)。断絶と死に彩られているが、最後が新しい”子供”を作って自分(たち)を受け継いでいく、と受け取ることができて大変興味深い。