2018年2月11日日曜日

小手/雑記

日本の東京のポストロック/ハードコアバンドの1stアルバム。
2018年にIOTOからリリースされた。
小手は2000年に結成されたバンド。メンバー四人は作務衣に身を包み、ボーカル以外は日本の伝統的なお面(狐と鬼)をかぶっている。5弦ベースと7弦ギターを使い、バンド名やその世界観からわかるように和を意識したバンドだが、出している音はかなり特殊。
私はこのバンド名前だけは知っていたのだが、会社にいる音楽好きの(元々バンドをやっていた)人からとにかく聞きなさい、ということで紹介された。これがとてもよくて仕事中にyoutubeのライブ動画を聴いたりしていた。で、タイミングよくアルバムが発売されたので購入してみた。

作務衣にお面、弦の多い楽器とくれば和製Slipknotか?って思ってしまうけど、聴いてみるとぜんぜん違う。(和)太鼓を意識したような独特の叩き方のドラムがリズムを刻み、ギターはクリーントーンでアルペジオまたは単音で透明かつ温かみのあるクリアな音を奏でていく。音の数は少なく、残響が意識されている。ミニマルに繰り返されるアンサンブルが穏やかに暖かく胸にじわじわ染み込んでくる。ベースも存在感はありつつあくまでもさり気なく滑るように入り込んできて、ギターとドラムの間にもう一本の太い綱を張り渡す。そこにボーカルが乗ってくる。やはり和を意識したようなお経や、古典芸能のように独特な節をつけて歌うパートもあるけれども、基本的にクリーンボーカルで歌詞を読んでいく。ほとんどメロディはないわけで、どちらかと言うと語りに近い。いわばポエトリー・リーディングであり、そういった意味ではバックの演奏と相まって非常にポストロック的なアプローチだ。ただ殆どのポストロックがポエトリー・リーディングを主役に据えることはあまりなく、ときには単に激しさとの落差をつけるだけのかったるい夾叉物でしかない。小手はしかしここを主戦場に据えて自分たちだけの音楽を模索している。この歌詞こそが小手の音楽だ。小手の歌詞は長い、そしてリフレインが殆ど無い。長い歌詞を良くも忘れずと思う(ライブでも正確でこの間は少なくとも一回も言い淀んだことはないと思う。)くらいとつとつと読んでいく。いわゆるいい声でもないが、それでも歯切れよく歌詞を見なくてもわかるくらいはっきりと読んでいく。ボソボソわかるんだかわからないんだかわからないそれらしいことを喋る自己陶酔めいた音楽とは異なる。そうなるとラップでは?と思うし、実際に聞きやすさは韻の踏み方というところで意識されていると個人的には思うが、抑揚がなく、やはり語りかけるような手法はラップと言い切るのは無理があるように思う。
さてじゃあその長い歌詞はどうなの?って話になるのだが、ひょっとしたら小手の音楽は若い人には刺さらないかもしれない。特に今音楽をやっているような若者からしたら負け犬のおっさんの愚痴めいた繰り言・遠吠えにしか聞こえないなんてこともあるかもしれない。音楽で一旗揚げられず、かといって家庭と仕事にもフルコミットできず、未練が残る。葛藤と後悔、いい年こいて「まだ俺にも!」なんて捨てられない希望。それが生々しく綴られていく。感情だけを綴っていくとどんどんアート的詩的になりがちだが、そこはこの小手きっちり曰く「灰色」の日常生活に感情を落とし込み、溶かし込み、コンクリートでできたかのような正確な描写で書き連ねている。この毎日のつまらないこと!つまらない割には圧倒的に時間を取られる仕事、毎日がいつも同じ。怒られるだけでちっとも冴えない。うだつの上がらない。お金がほしい。後悔ばかりの人生。まだ自分には何かできるはず。そんなどこにでもある失敗した人生が飾らない言葉で綴られる。このつまらない人生にはしかし、本当に何もなかったのか。だいぶ偏った喜怒哀楽、勘違いだけど熱い気持ち、わずかばかりの大切な人、一瞬だけ火花のように燃え上がって消える1日、そんな退屈のなかの幾つかの日々がちょっとだけ光っている。重たい灰の下にちょっとだけ光っている。それを灰ごとすくい上げたのが、この小手の音楽だろう。だから終始ミニマルな演奏も繰り返す日々のメタファーという意味で非常にしっくり来る。

小手の音楽は1枚の写真に似ている。なぜ彼らがお面をかぶっているか。それは彼らが誰でもないからだ。つまり誰でもある。この冴えない人生は、この雑記は彼の、あなたの、そして私の物語にほかならない。無常に進んでいく日々の横方向の動き、感情の起伏の縦方向の動きで織り上げられた、冴えない物語。あなたは写真のように切り取られたこの灰色の毎日に、自分の人生を振り返る。砂金のように少しだけ揺らぐ煌めきに空っぽだと思い捨てた人生の重みを知るだろう。なんという前向きな、そして優しい音楽だろうか。

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