2018年3月31日土曜日

J・G・バラード/ハロー、アメリカ

イギリスの作家の長編小説。
1981年に発表された小説で原題は「Hello America」だが、日本では集英社から「22世紀のコロンブス」という題で発売されていた。「エイリアン」シリーズのリドリー・スコットの手によって映画化されることが決まっているようで、そのタイミングも合って原題の直訳に直して東京創元社から再販された。クリストファー・コロンブスは大航海時代にアメリカ大陸を発見した人物である。(彼のwikiを見ると気分が悪くなるな。)

21世紀、地球の気候変動によりアメリカ大陸は砂漠化が止まらず、放棄されていた。アメリカ人は難民としてヨーロッパを中心に世界中に散り散りになっていた。22世紀になり各国は荒廃したアメリカに探検隊を派遣したが、結果は芳しくなかった。そんな中スタイナーを船長とする蒸気船アポロ号がイギリスから出港。ユダヤ人の少年ウェインはアメリカ合衆国の第45代目の大統領になることを夢見てアポロ号に密航する。

「結晶世界」「沈んだ世界」「燃える世界」で破滅後の世界を書いてきたバラード。その後はSFにとどまらない独自の作品をたくさん書いた。私はアフタヌーンで連載された「エデン」という漫画の元ネタとして「結晶世界」(Locrianという音楽グループもこの作品に触発されて同名のアルバムを作っている。内容は最高。)を読んだのを皮切りにポツポツと本を読んでいる。アウター・スペースにロマンを求める多くの作家とは違いインナー・スペースに切り込んだ彼の作品はどれも陰鬱で内省的だ。
この「ハロー、アメリカ」はそんな世界3部作を彷彿とさせる作品。ただし今のところ崩壊の憂き目を見ているのは北アメリカ大陸だけである。言うまでもなくバラードは世界のいろいろなところを見てきた人だが、国籍で言えばイギリスの人であるから、そんな彼からしたらアメリカは故郷ではない。アメリカというのは歴史の浅い国で、そのわりには豊かで他国への影響は非常に強い。いわば有名な国であって、自国民ではなく他国の人にも強烈な印象を植え付ける。日本にとっても戦争に負けた国であり、その後は同盟関係を結んでいる国であり、なんとなく心的な距離が近い他国である。自由の国アメリカ、そしてアメリカン・ドリーム。人を惹きつけてやまないこの国には、各人が色々なイメージを抱いている。アメリカがその強大な武力で抑圧している国の人はまた私達とは全く異なった思いを彼の国に対して抱えているだろう。そんな幻想、つまり勝手な思い込みをテーマにしたのがこの小説で、登場人物たちはそれぞれのアメリカを廃墟となった巨大な国土に各々の幻想を見て取る。「You see what you want to see」と歌ったPoison the Wellを引き合いに出すまでもなく人は自分のみたいものを見るのである。そんな欲望を写す鏡として、やはりアメリカはこの小説では滅んでいる必要があったのだ。(今生きている確固たるアメリカ像があれば自己の欲望とのギャップがでてしまう。ただ生きていたとしても明確なアメリカ像なんてものはありはしないのだが、やはり物語的にはわかりにくくなってしまう。)
自分の欲望に溺れてよくのに他人と傷つけあってしまうのはやはりバラード節というところで、さらに(放棄されながらも眠っていた)巨大な力が非現実的な妄想を実際の脅威にしてしまうのは何となく今の銃規制で揺れるアメリカ 彷彿とさせる。(「人を殺すのは銃ではなく人だ」とはご立派な意見だが、人間の短絡的な愚かさを考慮していない戯言だと思う。)バラードは他国人らしい冷静な目でアメリカ(と世界どこにいても同じ人間の)の本質を捉えていたのかもしれない。

2018年3月25日日曜日

ラリイ・ニーヴン/無常の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン

アメリカの作家の短編集。
著者ラリイ・ニーヴンはあとがきによるとニュー・ウェーブムーブメント以前(1960年代から1980年代)の時代に正統派SFといえばこの人!と言われた方なのだそうだ。この本は日本オリジナルの短編集でどうも1979年に出版されたようなのだが、表題作でありヒューゴー賞と星雲賞を受賞した「無常の月」が映画化される、ということもあって装いも新たに再販された。

7つの短編が収録されており、どれもフィクション、この場合は現代の技術にはない仮想の技術を取り扱っているSF。ハードなSFであり、単に学術的な要素が物語に一つの要素、装置として働いているというよりは、その理論や仮説によって物語全体が構築されている。つまり技術的な問題から出発しているので、その科学的な要素なしでは成立しない物語だ。例えば作中の未来的な技術を魔法に置き換えても成立しない、といえばわかりやすいだろうか??決してくどくもなく、上から目線でもないのだが、作中に出てくる技術や事象の説明は結構難しくて、中学生時代に理系の授業をドロップアウトした私には正直わかっているのだが怪しいところも結構多かった。こうなると結構置いてけぼりにされたりするのだが、ニーヴンの場合ガッチリしたハードSFながら、物語の周辺に魅力的な人物たちを配置し、彼らを巻き込んで物語全体を丁寧に動かしていくから、読んでいる側はそれに乗って物語のラストまでついていくことができる。きちんと人物の口から事象についてわかりやすく噛み砕いて解説させること、解説に終止することなく、物語が画的にも躍動的に動いていくこと。なにより物語の動きに付随する登場人物たちの心情を会話や仕草に込めて簡潔かつ充分に描写されており、大変読みやすい。そこら辺の叙情性が遺憾なく発揮されているのが表題作の「無常の月」で、なるほどこれが映画化されるもの頷けるくらいの情感だ。誰もが一度は考えるであろう命題にきちんと科学的な根拠を提示し、そしてあくまでも現実的・個人的な問題として取り扱っているのがなんといっても面白いところ。
買ってから気がついたが「ホール・マン」だけはアンソロジーで読んだことがあった。この物語に出てくる、ひょろひょろオタクと頑強な体育会系の衝突というのは古今東西の文化に共通する問題だろうし、双方ともに嫌なやつではないけどかと言ってすきになれないよな〜という「あるある」を超えた先にある人物描写(キャラクターっぽいけどそれだけではない)が良い。また「馬を生け捕れ!」で見せる自分の持ち味のハードSF性をいとも簡単にぶん投げてユーモアに走り、あくまでも自分は魅力的な物語を提供する作家ですよ、というやり方も無学な私にはありがたい。

ハードなSFを柔らかく魅力ある語り口で楽しめる、という意味で間口の広い一冊。

Jawbreaker/Unfun

アメリカ合衆国はニューヨーク州ニューヨーク・シティのハードコアパンクバンドの1stアルバム。1990年にShredder Recordsからリリースされた。Liveageの使用機材を推測するという記事で取り上げられており記事が面白かったので買ったみた。Bandcampで売っているリマスターされたてボーナストラックが追加されたバージョン。
Jawbreakerというのはアッパーカットのことかと思ったらどうもデカイ飴のことを指す言葉らしい。あごが外れるくらいデカイやつでJawbreaker。かわいいネーミングだ。

中学生の頃にメロコア(ここではメロディック・ハードコアとは異なるジャンルとして)が流行りだした。私は同時に隆盛を極めたニューメタルの方に没頭して青春パンクらへんに対して嫌悪感すらあったが、Hi-Standardの「Making the Road」はクラスメイトの三浦くんから借りてMDに録音してよく聴いていた。バンドやっている連中はこぞって「Stay Gold」のイントロを弾いてたりした。(そんな中Metallicaの「Battery」にチャレンジしている岩楯くんってやつもいた。三浦と岩楯はその後バンドを組んで文化祭でMetallicaの「Fuel」をカバーするのだがそれはまた別のお話。)Jawbreakerはジャンルとしてはポップ・パンクにカテゴライズされ、いわゆるメロコアの走りとされるバンドのようだ。ただいわゆる日本に根づいたメロコア・サウンドを期待するとちょっと裏切られるだろう。音の細さは発表された年を考えると仕方がないにしても、あまり早くないし、ストレートかつシンプルって感じでもない。何ならちょっとひねくれている。何より曲に哀愁の要素がある。思うんだけど後に多様な影響を与えたとしてもJawbreakerは紛れもないパンクバンドだ。ただ1曲めから「I want you」と歌うように、あらゆる権力に中指を立ててきた伝統的なパンクロックとは違い、取り扱うテーマはもっと個人的だ。つまり出発点はあくまでも音楽的な形式としてのパンクだったが、やり方的にはハードコア方面ではなく、エモ方面に舵をとった形。当然ジャンルとしてのエモなんて(確立されて)ない時代なのでそういった意味での先駆者なのだろう。ここでのエモ、エモーショナル、つまり感情の豊かさはジャンルが固まる前のもっと混沌として自由なもの。メロディが重要な役割を担っていることは共通しているが、そのメロディもくどいものではなくやっぱり出自を感じさせるぶっきらぼうなもの。
何よりボーカルの声質が良い。パンクってなにか?って言われた個人的には声が重要なジャンルだ。Sex PistorlsのJonny Rotten、RamonesのJoey Ramone、どれも個性的な声をしていた。後のハードコアのマッチョなボーカルとは違う、反抗心と同居する悪戯心というのがあった。攻撃的だがどこか憎めない、個人的にはある程度の幼さがある声に惹かれる。そういった意味ではJawbreakerのボーカルBlake Schwarzenbachの声質は抜群だ。幼さがありそしていくらかしゃがれた声をしており、その相反する要素がなんとも言えないノスタルジックさを醸し出している。
ノスタルジックとは郷愁のこと、音楽ではよく哀愁ということばで表現される。私は英語がわからないからJawbreakerの郷愁/哀愁はもっと曲の方にあるのだろう。(そして歌詞をよくよく読めばその感情はきっと増幅されるのあろう。)不思議なもので私は本当に起伏のない人生を歩んできたので、無駄に年をとった割にはキラキラ輝く思い出もないのだが、それでもこういった曲を聞くと何かしら胸が締め付けられるような気分になるから不思議だ。記憶喪失の人にJawbreakerを聞かせたら、果たしてどういう感想を持つのだろうか。

押し付けがましくない、でもなめらかなメロディがなんと言っても心地よい。そこには破壊や死ではなくて、葛藤や逡巡、照れ隠し、かっこつけ、毎日のくだらなさと楽しさが詰まっている。言葉を超えた感情が溶け込んでいて、そしてそれこそがまさに世界共通の言語なのだと思わせる。音楽とはバベルが崩壊した以降の人間の再度の神に対する挑戦だ。Jawbreakerを聞きながらそんなことを思ったってよいでしょう。

2018年3月18日日曜日

Arkangel/Prayers Upon Deaf Ears

ベルギーは首都ブリュッセルのハードコア/メタルコアバンドの1stEP。1998年にReleased Power Productionsからリリースされた。
2013年に(そしてその以前にも)来日経験のあるバンドだがすでに解散している。メンバーは結成当初ストレートエッジでヴィーガンだった。(後にはそうでなくなっている。)
なんて言ってもArkangel(大天使を意味するArch Angelをもじった)というバンド名、そしてキリスト教の宗教画からとったこってりしたジャケットアート。物々しいタイトルも宗教的なモチーフから拝借してきているようだ。どう考えても臭いメロディが売りのパワーメタルバンドといった風情だが、中身はというとガチガチのハードコア。(サブ)ジャンル的にはフューリー・エッジ(Fury Edge)というジャンルにカテゴライズされる。単音系のリフ(Slayerからの影響と書かれている事が多い)を多く用いることが特徴。

「聞こえない耳に向けた祈り」というタイトルはなんとなく詩的だが、実際は難聴者にでも確実に届くような轟音のハードコア。やはり基本的なギターのリフが単音で構成されているのが特徴的か。エモ/ポスト系の分野で低音リフにかぶせてくるメロディアスな高音とは一線を画す、邪悪でぶっきらぼうフレーズという感じで、マスロック(コア)やテクデスにありがちなピロピロさは皆無で単音と言っても重量感がある。ハードコアは速度でもって曲に高低差をつけるのが特徴的だが、この高音リフに関してもいざというときの低音リフとの差別化をこれによって増強していると捉えるとなるほどハードコア的なやり口だと思う。ボーカルに関してもややしゃがれ要素が入っていて、オールドスクールなマッチョなハードコアとは一線を画すタイプ。
不思議だと思うのはなぜこれがメタルではないのかということだ。こちらの予備知識があることも大きいだろうが、それにしてもSlayerから拝借してきた単音リフを主体に曲を作っているのになぜハードコアに聞こえるのか?というのが気になる。やはり疾走感の意図的な殺し方、それからつんのめるようなリズム(これは拍のとり方という意味で勉強したいと強烈に思う。)で出すグルーヴ感だろうか。要するに音だけはメタルからとってきて、ハードコア的な曲作りというか使い方をしているからだと思う。速度が遅くてもドゥームのズルズル感とは違う、歯切れよく刻んでいくのだが、スラッシュの明快さとは違った粘っこさがあるので、結果いわゆるハードコア的な”ブルータル”さが生まれているのはなかろうか。

かなりゴテゴテしていて、ブルータルにかつ洗練されていく昨今のハードコアの流れではきっと生まれないのではというセンス。ともするとメタル的である、つまり悪い言い方をすればダサい(メタルがダサいというのではないです。)ということになってしまうかも知れないからだ。強さが支配するハードコアの世界では結構致命的なのではなかろうか。しかし出来上がった音を聞けば昨今のどのバンドには醸し出せない、ヤバさ(強さ、ヒップホップで言うillだったりdopeだったり)を出しているのが面白い。いわゆるギャングスタ的な悪さとは異なることも特筆すべきかもしれない。十字軍の栄光が結果的に地に落ちたように、突き詰めた正義感がもつ危うさを感じさせる面白いバンド。ハードコアに邪悪さを持ち込むという意味ではDead Eyes Underにすこし似ているけど、露悪的雰囲気を持つなこちらに対してArkangelのほうがユーモアがないぶんもっと余裕がなく張り詰めている印象。

最近こればっかり聴いている感じがある。なにげに歌詞も結構面白いというか馬鹿にできない完成された詩的な世界観があるなと思う。

Morgue Side Cinema/mud,light,exit,water

日本は大阪のパンク/ロックバンドの3rdアルバム。
2018年にCH CARGOからリリースされた。
明らかにグラインドコアバンドNapalm Deathをもじった前作「Napalm Life」から13年。正直もう出ないのではという新作がついに。1997年に結成され、Number Girlとも共演したというバンド。とにかく前作は素晴らしく感想を書いたのはもう〜年前だが、それ以来事ある毎に聞いている。メロディが特徴で歌詞も日本語だからついつい口ずさんだりしちゃうのだ。

Morgue Side Cinemaは結構無愛想なバンドで、こんなこと言うのもあれだが華がない(これは前作収録の曲の歌詞にも出てくる)。妙にこぶしの効いたような歌いまわしは全然おしゃれじゃないし、なんなら英語の歌詞は本当日本語的なべったりとした発音だし。曲は短いけど、早いわけでも、逆に遅いわけでも、攻撃的なわけでも、必要以上に重たいわけでも、トレモロが美しいわけでも、ギターソロが超絶技巧なわけでも、展開がプログレッシブなわけでも、モッシュパートが激しいわけでも、ハーシュノイズを使うわけでも、ない。要するにとらえどころとなるキャッチーさがないんだけど、断言するが曲は素晴らしい。ただ無闇矢鱈にわかりやすいキャラづくりをしないだけなのだ。(それこそが知名度を売るビジネスでは致命的なのかもしれないがそんなことは知ったことではない。無いということそれ自体が魅力になることだってあるのだ。)
Leatherfaceに通じる哀愁と書いてあるところがあって、Leatherfaceは「he Stormy Petrel」の1枚しか持ってないので偉そうなことは言えないのだけれど「哀愁」という共通点はあるもののこちらはあちらほど(意図的に)枯れた感じがしない印象。どの楽器も無駄を削ぎ落としたソリッドな音使いでいぶし銀な格好良さがあるが、なかでもとにかくギターが良い。短い曲の中を縦横無尽に動き回る。中音域が分厚い、重量感と温かみのある音が自由に伸縮性のある音を描いていく。真っ青な空に伸びていく飛行機雲を地上から眺めているようにひたすら爽快である。高高度の強風に崩れてすぐ消えがちだが、群青に一本ひいた線のように痛快である。だれも傷つけないなにかしらの反逆行為のようではないか。ギターが唸って、力強い歌がある。私がロックバンドに求めるものが揃っている。こうしてくれ!ってのが入っている。しなやかだが強靭、強靭だが叙情的である。

わかるようでわからない、わからないようでわかる歌詞(曲によって結構具体的だったりもする。親交のあるった先輩を偲ぶ「翌朝」の後半の川のきらめきに決意を込める歌詞は本当素晴らしい。)が特徴的で、今回はその難解さを増しているように思う。わからないなりに文章として成り立っていた前作から、今作では単語の羅列にまで分解されている。TMGEのチバユウスケほど本当思いつきを並べたようなのではなく、一応関連性はある何かの比喩のように感じられる。

2月頭に東京でライブをやったんだけどその日は珍しく用事があって見れなかったのを後悔している。マイペースに活動するバンドのようなのできっとまた見る機会があるだろうと思うことにする。1stも噛みしめるように訊いていくうちにどっぷりハマっていったのだが、今作もそう。今作はちょっと地味か?と思ったけど聞けば聞くほど味が染み出してくるように良い。今聴いているし、きっとまた1年経っても聴いているだろう。ぜひぜひCDを手にとっていただき聴いていただきたい作品。非常におすすめ。

2018年3月11日日曜日

ミシェル・ウェルベック/闘争領域の拡大

今世界で一番売れっ子の作家の一人、フランスのウェルベックのデビュー作。この度文庫化されたので購入。

日本人が出っ歯にメガネ、スケベでカメラを取りまくっている小男の集団だとすると、フランス人は情熱的でその人生は恋愛に捧げられている。パリを歩けば数多の美男美女の組み合わせが「ジュテームジュテーム」言いながらきつく抱きしめあい、そして熱いベーゼを交わしているというのは常識だと思う。実際にはそんなことはない。私達が出っ歯で7:3分けの小男のみで構成されていないように、フランス人にだってブス醜男は居る。おそらく割合からしたら日本人と変わらない位いる。彼らは悲しくなるほど異性にモテなく、中には一生パートナーに縁がないまま終わるやつも結構な数いる。なぜなら民主主義の現代、経済だけでなく恋愛も自由主義だからだ。だれも誰かの結婚を止める権利はない、逆に無理やり結婚させる権利もない(それらのケースがだがしかし実際にないわけではない。)、すべてが貴方次第。臆病な自分にサヨナラを告げて理想の恋人を手に入れよう!というのが今なのだ。フランスだってそうなのだ。頑張ればなんでも手に入れられるパラダイス。この一見理想の未来世界はしかし、しかし周りを見てみていると富者と貧者の格差がひろがるばかり。持てるものはありあまる資産を運用し、その腹を肥やしていく。一方持たざる者は日々の糧を肉体を酷使することでようやく得ることができる。そもそもかけるチップがないので両者の隙間は埋まるどころか広がっていく。これと同じことが恋愛の領域でも起きている、というのがウェルベックの主張である。
今まで何冊か読んだウェルベックの本でこの本が一番わかりやすく、そして最も直線的な怒りに満ちている。まさに初期衝動に溢れたロックバンドの1stアルバムといった風情のこの本が、作中にも書かれているが現代社会の不平等ではなく不当さを声高に糾弾している。ウェルベックはなにも国家が配偶者を斡旋しろとか、お見合いをしろとか言うわけではない。主人公たちだってパートナーを見つける、という点ではもっとなにか出来ただろう。ウェルベックは確実に現代に存在する敗者の声なき声を小説という形に昇華することで取り上げたのだ。贅沢だとか、自己責任だとかいえばそれはそうかもしれないがしかしなんといっても実在する苦しみに一つの形を与えという意味では、恐ろしい物語であり、しかし怒りに満ちていながら弱者に対する優しい眼差しがある。

主人公というのがまた嫌なヤツで、係累はない。友達は数少ないがいる。恋人はまあいる(別れたのは2年前)。仕事はそれなりにできる。全く能動的ではなくて、ウェルベックの他の小説にもでてくる無気力な男たちよりもっとひどい。売春旅行に行くでもなく、フリーセックスが売りのキャンプに行くわけでもない。ただ一人で居るほど強くなく、行動はしない割に絶望している。自分より外見に恵まれない同僚に対しては連品と同情を感じつつ、安堵も感じている。いやなやつだ。でもこんなやつ見たことないか?割としょっちゅう目にする気がする。そう、これは私だったのだ。敗者だけどただ愚直ないい人ってわけではない。そこにリアリティがある。生活がある。そして彼の苦しみが理解できるのである。この小説はプロット的には大したことがあるわけではない。それぞれ歪んだ登場人物たちが(完璧に理想的な人間は一人も出てこないのでは)、見にくく右往左往するだけの話だ。「なんでこんな簡単なことを出来ないのかね?」「一歩踏み出せよ」持てる人(モテる人)はそう言うだろう。そしてそれはきっと正しいのだろう。私達は悪い循環に勝手に入ってそこから抜け出せないのである。どんなに愚かに見えてもそれはとても苦しいのだ。

終始男からの目線で書かれている。訳者の方は女性である。女性が読んだらどういうふうに思うのだろう。闘争領域ではもっともっと辛酸を嘗めているのは確実に女性なのではと思う。女性の感想をよんでみたい。

エリック・マコーマック/隠し部屋を考察して

大英帝国スコットランド出身、カナダ在住の作家による短編小説。
長編「パラダイス・モーテル」が面白かったので読み終わらないうちに注文した。
私にとってはマコーマックの日本で読める本のうち2冊め。絶版なので古本で。
タイトルからするとミステリーっぽい響きもあるが、基本的にはマコーマックにしか書けないような不思議な短編が20収録されている。

前述の「パラダイス・モーテル」の物語の発端となった話も、より丁寧にページを割いた短編となって収録されている。
マコーマックの各小説は独特だ。どこにも見たことのない物語では全然ないが、こういう書き方、物語の組み立て方はあまり類を見ないような気がする。
幻想文学というのは曖昧な文体で書いちゃ駄目なんだ、というのは(このブログでも何回書いているけど)澁澤龍彦さんが書いていてたしかにそうだと思う。
マコーマックはシンプルで力強い筆致で描く物語はかなり現実離れしているという意味では幻想の世界に片足を突っ込んでいるとは言えるのだが、やはり幻想と言うには硬すぎる。しかしそれが現実を舞台にした小説家というと今度は曖昧すぎるのだ。
結果的に詩的ではあるが物語然としすぎているし、散文ほど散らかっていない。悪い言葉だがかなりどっちつかずの半端な世界観なのだ。状況は鮮明なのだが、どうにも信用出来ないという意味では、最高のほら話、つまり最高の物語と言えるのだがどうもこう居心地の悪さが残る。
この違和感がマコーマックの持ち味だろう。
あとがきでも書かれているが、物語の多くでかなり精算な描写がある。肉体的な痛みについて丁寧に、執拗と言っていいほど書いている。ただそれはあくまでも第三者的な観察眼というふうであり、露悪的なホラー要素は皆無である。まるで外科手術の様子を移したビデオを見ているような感じ、といえばある程度伝わるかも知れない。肉体的な痛みがあっても、どうも物語全体としてはケロリとしてこともなげに、曖昧なオチに向かって進んでいく。マコーマックはスコットランドのだいぶ貧しい地域で生まれ育ったらしい。あらっぽく、近代化されていなかったようなので生と死が渾然としているのは、彼にとってはむしろ普通のことだったのかも知れない。物語が人生のデフォルメや比喩だとすれば、喜びや悲しみとともにそこに肉体的な痛みや死が含まれることは当然のことではある。

物語が人生の比喩ならそこから含蓄を抜き出すのが読書の醍醐味と言える。マコーマックの作品に関してはその醍醐味が難解である。(私の読解力と人生経験の欠如は原因の一つに挙げられると思う。)確固たるものが拾い出せないのである。物語の水槽に手を浸してすっと取り上げても空っぽではないが、よくわからないものしか抜き出せない。この茫洋とした感じは夢に似ている。夢判断がいつの時代も人を引きつけるのは解釈にバリエーションがあるからだ。つまりよくわからないのが夢だ。夢から明快な印を読み解くのは難しい。夢物語といえばなんといっても漱石の夢十夜だろう。通じるところはあると思う。

ところで私はたいてい悪夢ばかり見る。悪夢と言っても追いかけられた挙げ句殺される、とかではなくて、なんとなく不安になるのだ。でも起きた頃にはその不安感を言葉でいいあわらすことが出来ない。マコーマックの小説はとらえどころがないが、私はなんとなく読んで非常に安心したのであった。

2018年3月4日日曜日

Quicksand/Interiors

アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・シティのポスト・ハードコアバンドの3rdアルバム。
2017年にEpitaph Recordsからリリースされた。
1990年に元Gorilla Biscuitsや元Youth of Todayらのメンバーによって結成され2枚のアルバムをリリースした後、1995年に一度解散。その後1997年に再結成後1999年に再度解散。2012年にまたもや再結成し、ようやく発売されたのがこのアルバム。流砂という名前のバンドで私はRevelation Recordsのコンピレーション・アルバム「In-Flight Program」に収録された「Omission」という曲しか聞いたことが無い。恥ずかしながら再結成後に発売されたアルバムという盛り上がりに押されて買った次第。
wikiを見るとFugaziとHelmetとよく比較されると書いてある。

少し線の細い、ナイーブさを秘めた甘い歌声が伸びやかに、外へ外へと歌っていくオーセンティックなロックバンドとしての風格に良い意味で驚かされる。しかしよくよく聞いていると、ジャギジャギ刻むギターはやはりずっしりとした重みを感じさせ、またリズムの転換や凝った(ここではメタリックという意味ではない)リフなどにその来歴をはっきりと感じさせる。逆に言えばハードコアをどこまで”歌”に昇華させられるかというチャレンジでもある。ここで個人的に感心するのはその外向性であり、ハードコアが技量に凝り(悪いことではない、むしろ良いことでもあるとはっきり思います)、内面の葛藤を取り扱うと概ね内省的になり、そのサウンドはその懊悩を反映し、暗く、また反動的に攻撃的になっていく傾向からははっきり意図的に決別している点だ。重たいハードコア・サウンドにわかりやすいメロディを乗せるのがこの手のバンドの単純明快な(こちらも良い点と悪い点があるが、概ね出自のジャンルに拘りのあるファンは苦い顔をする。)上昇志向の一つの結果、つまりセルアウトとするなら、歌化することがある意味ではハードコアという持ち味(凶暴さ)をかなぐり捨てている、という見方ができる。引き合いに出されるというFugaziにそこまで似ているかな?と思ったのだけど、たしかにハードコアを脱却した音と、その脱却しようという精神こそが実はハードコアの真髄なのだという、そのやり方が似ているのかもしれない。
そんな内部闘争があったのかどうかは正直全くわからないのだが、そんなのどこ吹く風であくまでもからりとしたロックを演奏する姿はいかにも格好良い。Elliotのような切なさ、Refusedのようなマス感、どちらも実はその身内に取り込みつつ(結構楽曲は複雑じゃないかと思う)、あくまでも表面上としては実直なロックサウンドとしてアウトプットする。今作しか聞いてないから曖昧な判断だが、Helmetの強靭さ、冷徹さはほぼなく、もっと柔らかい感じ。「Omission」を聞くとなるほどだいぶ今の音からすると強面の音楽をやっているからいろいろな音的な変遷があったのだろう。音は強靭だがとてもしなやか。8曲目「Fire This Time」はストレートに内面に秘めたハードさが出ていてわかりやすいと思う。内面をわかりやすく吐露するエモ・バイオレンスや激情に比べると、やはりちょっとその真意は測りにくい、というのはあるかもしれない。それくらいクールではある。(クールさの弊害ともいえるかもしれない。)

エリック・マコーマック/パラダイス・モーテル

イギリスのスコットランド出身、カナダ在住の作家の長編小説。
原題は「The Paradise Motel 」で1989年に発表された。

海岸に面したパラダイス・モーテルで私は回想する。
出奔から放浪を経て30年ぶりに我が家に祖父から聞いた奇妙な話。
昔医師の父親が母親を殺害し、遺体を切断。4人の男女の子どもたちに外科手術でを用い、母親の遺体の各パーツをその腹部に埋め込んだという。
その後4人の子どもたちの行方は杳として知れない。しかし私は不思議なめぐり合わせで子どもたちのその後の人生を知ることになる。

体裁としてはミステリーということになるが、誰がどうやって殺したかという本格性は皆無で、物語の軸となる謎(なぜ父親は妻を殺して子供にしたいを埋め込んだのか、子どもたちはどのように成長したのか、そしてそれらの一連出来事は主人公にどんなつながりがあるのか)も読み進めるとそもそも怪しくなってくる。物語が根底からゆらぎ出し虚実の区別がつかなくなってくる。そういった意味ではポストモダン的であると評されることもあるという。私は無学なので一体ポストモダンが何なのかさっぱり分からないが、幻想という不思議を内包する小説というよりは、小説の枠組み自体が信用ならないという意味できっとそのように言われているのだと思う。例えば骸骨が喋ったりすれば幻想小説かも知れないが、今作は微妙にその線からズレている。主人公は散り散りになったとされる4人の兄弟のその後の消息を”偶然”、それも短期間のうちに、世界中の別の国で本人ではない誰かから聞くことになる。こんな偶然あるだろうか。普通の小説なら何か理由を弄りだすだろう。だがこの小説では臆面もなくそんな芸当をやってのけ、読み手はあまりの出来過ぎに首を傾げることになる。小説と言うのはすべて読み手を意識して書かれているが、ここに関しては読み手を明らかに煙に巻こうという意図で書かれているからそういった意味ではメタ的とも言える。ミステリーでは語り手が犯人とか地の文が改ざんされているとかは禁じ手とされるが、それ故飛び道具的に用いられることもある。ところが「パラダイス・モーテル」ではそんな禁じ手が使われているのに一向にモヤは晴れないし、それどころか読者は自分は一体何を読んでいるのだろうか?という疑心暗鬼にとらわれていく。これは妙な体験である。

文体は凝った比喩が用いられた平明かつ美しいもの(邦訳の妙もあると思う)だが、殆どの章には残酷な描写があり、なかでも体に貼りを1本ずつ突き通していく大道芸の描写には結構まいった。「首が取れた、血がブシャー」みたいなのはぜんぜん大丈夫なのだが、純粋に学術的な意味でカメラで外科手術の風景を記録したようなのは映像でも文章でも苦手らしい。残酷な”他人の”人生と、恋人との何不自由がない(食うこと、寝ること、性交することの描写しか無いと言っても過言ではない)”自分の”人生。やはり出来すぎているという意味で非常に居心地が悪い。ばらばらにした死体を子供の体内にに紛れ込ませたかのごとく、この物語もなにかツギハギで作られて、それを隠そうともしない違和感に覆われている。他人を喜ばせるためのほら話という形を逆手に取っているのだろうか。

面白かった。物語だけでなく文章が非常に良い。読んでいるのが楽しい。マコーマックの作品はこの作品を含めて3冊が日本語で読めるのだが、とりあえずもう一冊を今読んでいる。